江戸の古地図|紀尾井坂・仙台坂・南部坂……江戸っ子はなぜ坂に名前をつけたのか
戦国時代
京都古地図|わずか9年で取り壊された豊臣秀吉の聚楽第はどんな構造だった?【天下人の城】
壮大な規模を誇った聚楽第 本能寺の変後、織田信長に代わり天下の覇権を掌中に収めた豊臣秀吉は、天正13年(1585)に関白に就任。政治の世界においても実権を掌握しました。 翌年、秀吉は京都における政庁兼邸宅の建造に着手します。こうして完成...
【『キングダム』時代の戦いを早わかり⑬】中華平定|秦王政が始皇帝を称す【春秋戦国時代】
宿敵李牧を謀略で殺害した秦 呂不韋の死に伴って親政を始めた政は、いよいよ天下統一への道を歩み出しました。 その最初の標的として選んだのは、当時、もっとも国力が衰えていた韓でした。前231年、韓へ侵攻した秦軍が南陽の地を奪うと、政は内(な...
【『キングダム』時代の戦いを早わかり⑫】偽の宦官・嫪毐の反乱、政権を握った呂不韋の最期【春秋戦国時代】
秦国内で反乱が頻発する 函谷関において、「外」における最大の脅威を退けた秦でしたが、今度は国内において乱が頻発します。その端緒となったのが、前239年に勃発した成(せい)蟜(きょう)の乱でした。 成蟜は秦王・政の弟にあたり、長(ちょう)...
【『キングダム』時代の戦いを早わかり⑩】魏の信陵君が合従軍を率いて秦軍を撃破。しかし秦の離間の策により、魏王に排除される【春秋戦国時代】
10年振りに魏へ帰国した信陵君 邯鄲の戦いで趙・楚・魏連合軍の前にまさかの敗北を喫した秦でしたが、その後も積極的な外征を行ない、前256年には東周を滅ぼしました。ここに、前11世紀以降、勃興した周王朝の歴史に幕が下りました。 一方、邯鄲...
【『キングダム』時代の戦いを早わかり⑨】邯鄲を巡る戦いで3か国合従軍に敗れた秦【春秋戦国時代】
突然の趙との和議に激怒する白起 長平で趙軍を殲滅した白起は趙を滅亡させる好機であると判断し、趙の国都・邯鄲を目指して軍を進めました。 白起の進軍を前に、趙王はただ恐れおののくばかりでした。このままでは亡国への道を歩むのみ。そこで趙王は重...
【『キングダム』時代の戦いを早わかり⑧】長平の戦いを制した秦の白起が趙兵40万を生き埋めにする【春秋戦国時代】
秦の流言飛語に騙された趙王 中原諸国を圧し続けていった秦でしたが、その中にあって一矢を報いたのが趙でした。前269年には、太(たい)行(こう)山(さん)脈(みゃく)の閼(あつ)与(よ)で繰り広げられた戦いで、趙将・趙(ちょう)奢(しょ)が...
【『キングダム』時代の戦いを早わかり⑥】即墨の戦い|燕に領土を蹂躙された斉が一矢報いる【春秋戦国時代】
新王に疎んじられた楽毅 楽毅の侵攻の前に臨淄をおとされた斉の湣王は莒へと逃れて守りを固めましたが、宰相・淖(とう)歯(し)に裏切られて殺害されてしまいます。その後、斉では子の襄(じょう)王(おう)が即位しました。 楽毅は依然として斉領に...
【『キングダム』時代の戦いを早わかり⑤】済水西の戦い|燕将・楽毅が斉の領土を蹂躙【春秋戦国時代】
斉への対抗策として5か国連合軍を結成 西方で秦が覇を唱えるなか、東方では斉が着実に地歩を固め、4代宣王の時代には魏を馬陵で撃破。三(さん)晋(しん)の地を平定しました。 宣王は次なる矛先を、北方の小国・燕へと向けます。 折しも、このと...
【『キングダム』時代の戦いを早わかり④】6か国合従軍と秦が激突した函谷関の戦い【春秋戦国時代】
秦の台頭 馬陵の戦いで魏が斉相手に大敗北を喫したころ、西方では秦が着実に国力を高めていました。孝(こう)公(こう)の時代に登用された法(ほう)家(か)・商(しょう)鞅(おう)による富(ふ)国(こく)強(きょう)兵(へい)策が実を結び、一大...