江戸古地図|繁華街・新宿の素地が形成された江戸時代、賑わいの中心を担った内藤新宿

スポンサーリンク
古地図
スポンサーリンク

江戸の出入り口に位置した江戸四宿

 江戸・日本橋を起点とする五街道には道中に宿駅が置かれた。東海道は53宿、中山道は59宿、日光道中は21宿、奥州道中は10宿、甲州道中は44宿である。

 これらの宿駅は幕府の役人や参勤交代の大名など公用の旅行者の便を図るためのものであったことから、本陣や脇本陣、旅籠などの宿泊施設や、人足や馬を提供する問屋場などが設置された。

 宿駅の中でも、江戸の出入り口に位置する東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州道中の内藤新宿、日光道中の千住宿は「江戸四宿」と呼ばれた。いずれの宿駅も日本橋から2里余(約8キロ)であったことから、旅人のみならず、江戸っ子の遊興の場としても賑わいを見せた。

 とくに江戸っ子が目当てとしたのは旅籠に置かれた給仕を名目とする「飯盛女」という遊女で、江戸四宿は事実上の遊廓としても発展を遂げた。なかでも品川宿には天保14年(1843)の時点で93軒の飯盛旅籠屋が軒を連ねていたといい、1500人ほどの飯盛女が働いていたという。

歌川広重『東海道五十三次 品川宿』

 一方、江戸四宿は江戸の境界であると認識されていた。追放刑の一種である江戸払の範囲は江戸四宿と本所・深川であったし、参勤交代のために江戸四宿に入った大名は各所で身なりを整えてから江戸に入ったという。板橋宿に加賀藩下屋敷が置かれていたのも、12泊13日という道程を経て江戸に入る前に襟を正すという目的があったと考えられる。

内藤新宿の誕生

 江戸四宿の中で、もっとも遅く設置されたのは「内藤新宿」である。もともと甲州道中第一の宿駅は高井戸宿だった。しかし日本橋から4里余(約16キロ)と江戸から遠く、不便であったことから、元禄12年(1699)、日本橋と高井戸宿の中間点に新たな宿場町が設置されたのである。新しい宿場であり、信濃高遠藩内藤家の下屋敷の一部に置かれたことから「内藤新宿」と呼ばれた。現在の新宿御苑付近である。

『内藤新宿千駄ヶ谷絵図』

 このとき、宿駅の建設を出願したのは浅草の商人たちだった。すでに頭打ちにあった浅草の盛り場に代わる投資対象を新たな宿駅に求めたといわれる。

 宿場の全長は約1キロメートルに及び、そこに旅籠屋や茶屋が建ち並んだ。それらの店にはそれぞれ飯盛女、茶屋女という遊女同然の女性がいたため、江戸四宿の中でももっとも歓楽街としての色彩が濃かったという。だが享保3年(1718)、時の将軍・吉宗は内藤新宿に廃止を申し渡した。表向きの理由は旅人の利用が少ないというものであったが、本当の狙いは歓楽街として乱れた風紀を正すことにあった。

 こうして宿場としての機能を失った内藤新宿は一時廃れ、再び高井戸宿が甲州道中第一の宿となったが、やはり不便であったことから内藤新宿再開の訴えが幕府にたびたび出された。

 そして明和9年(1772)、町人たちの訴えに応じた幕府は宿場の再設置を許可。こうして内藤新宿には150人もの飯盛女を抱える店が52軒も建ち並ぶなど、再び歓楽街として隆盛を極めたのであった。

歌川広重『名所江戸百景』。当時の甲州道中は人馬の往来が多く、道ばたにはしばしば馬糞が落ちていたという。

 しかしそんな内藤新宿も、時代の荒波に抗うことはできなかった。明治18年(1885)に宿場の西側に新宿駅が開業すると、賑わいの中心は駅界隈へと移り変わり、内藤新宿は廃れていくことに。そして昭和に入ると、新宿駅の周辺にビルが建ち並ぶようになり、歌舞伎町を中心とした新たな歓楽街が形成されることになるのである。

新宿の歴史を知るためのおすすめ書籍

『新宿の迷宮を歩く』橋口敏男(平凡社新書)

明治時代、新宿駅の誕生当初は、武蔵野の雑木林の中。タヌキ小屋や茶店のあるのどかな田舎駅だった。やがて京王線や小田急線といった郊外電車の開通や、関東大震災を契機とし、ターミナルとして発展を遂げ、昭和の初めには日本一乗降客数の多い駅になっていく。本書では、新宿の黎明から文化の繁栄、当時の市井のグルメ・デパートやカフェーなど、新宿の当時の姿を鮮やかに描きだす。

『東京時代MAP 大江戸編』新創社編(新創社)

現代地図と歴史地図を重ねた新発想の地図「タイムトリップマップ」と歴史的・地理的・文化的な背景を解説した読み物を組み合わせた、時代MAPシリーズ。

『新宿・渋谷・原宿 盛り場の歴史散歩地図』赤岩州五(草思社)

ダイナミックに変わる東京の代表的街、新宿・渋谷・原宿。地形や道筋、鉄道、盛り場はどう変わってきたか。当時の詳細な地図、珍しい地図をもとに明治以降の街の変遷をたどる。デパートや飲食店や映画館などの推移から見る、戦前戦後の東京の裏面史。

タイトルとURLをコピーしました