3回通って馴染み客となる
江戸で唯一公認された遊廓・吉原は、江戸に住む男性にとっては憧れの場所だった。
しかし太夫など高級遊女と遊ぶには高額が必要で、また、厳格なルールを守らなければいけなかった。それを知るのに役立ったのが『吉原細見』というガイドブックである。

そこには遊女屋の場所や遊女の名前と格、揚げ代などが書かれており、江戸っ子たちはこの情報誌を読んでから吉原へ遊びに行った。
ただし、原則として3回通わなければ高級遊女と床をともにすることはできなかった。
まずは「初会」。この日は話をすることはできず、お互いに顔を見せる程度で終了する。かかる費用は総額で約5000文(約12万5000円)ほどだった。
次の2回目の「裏」でも、初会とやることは変わらない。それでもやはり5000文ほど支払う必要があった。
そして満を持しての3回目「馴染み」。このときに遊女から初めて馴染みの客であることが認められ、ようやく床入りをすることができた。
目的を達するためにかかった費用は10両(約120万円)以上。庶民にとっては夢のまた夢の世界だった。

庶民は岡場所で遊ぶ
庶民が吉原の代わりにこぞって訪れたのは、幕府非公認の遊廓・岡場所だった。高くても700文(約1万7500円)。安いところでは50文(約1250円)ほどで済んだので、庶民も気軽に訪れることができた。
宝暦・天明年間(1751~89年)の時点で江戸には約200か所の岡場所があり、2000人以上の遊女が働いていたといわれる。
なかでも賑わいを見せたのが深川。江戸から見て辰巳(南東)の方角に位置していたことから、深川の岡場所で働いていた遊女は「辰巳芸者」と呼ばれた。全盛期には深川だけでも25か所の岡場所があったという。

しかし岡場所の存在は幕府に認められていなかったため、吉原からたびたび営業妨害だと訴えられては取り締まりを受ける始末だった。天保13年(1843)にはすべての岡場所が取り払われている。
また、江戸の出入り口に位置する品川宿、板橋宿、内藤新宿、千住宿の旅籠も、江戸っ子の遊興の場として賑わいを見せた。お目当ては「飯盛女」。名目上は給仕をなりわいとしていたが、実態は遊女だった。いずれの宿駅も日本橋から2里余(約8キロメートル)と近いこともあり、江戸四宿は事実上の遊廓として発展を遂げた。