江戸古地図|江戸時代に同心が住んでいた八丁堀の由来は?なぜ掘られた?

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古地図

現在、オフィス街が形成されている八丁堀エリアには、江戸時代、与力や同心といった幕府に役人が暮らしていました。この記事では、なぜ八丁堀という地名が誕生したのか、八丁堀が掘られたのはどうしてなのかについて解説します。

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八丁堀の由来は堀の長さにちなむ

武州豊嶋郡江戸庄圖(部分)

江戸時代、八丁堀エリアには江戸の治安を守った与力や同心らが住まいを構えていました。古地図上で京橋川、楓川、日本橋川、亀島川に囲まれた一帯が八丁堀と呼ばれていたエリアです。与力や同心の組屋敷は、現在の中央区八丁堀1、2丁目あたりにありました。

八丁堀という地名は、舟入として掘られていた堀にちなむものです。寛永年間(1624~44年)、舟運のために京橋川、楓川、三十間堀川との合流地点から隅田川へと通じる堀が開削され、その長さが8町(約870m)あったことから「八丁堀」と呼ばれるようになったのです。もともとの表記は「八町堀」でした。

八丁堀に課された江戸防衛という役割

じつは八丁堀には、舟運以外にも江戸城を防衛するという役割が秘められていました。

当時、世界ではヨーロッパ諸国による東南アジアの植民地が進んでいました。それに対して日本では、3代将軍・徳川家光の時代にカトリック教国との国交を断絶。唯一残されたオランダ商館は平戸から出島へ移し、また中国船との私貿易を長崎に限定しました。いわゆる鎖国状態を現出したわけですが、それでも外国船が江戸湾へ侵入し、江戸城へ攻め入ってくる可能性も十分に考えられました。

そこで掘られたのが、八丁堀舟入でした。これによって外国船が直接江戸湊に接岸できないようにしたのです。また、当時の外国船は船体の横側に艦砲がついていたため、堀を江戸城と垂直方向に掘ることで、城が直接砲撃されないようにしたのでした。

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