江戸古地図|神保町の由来は?本の街となった理由も解説!

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古地図

神田神保町といえば、世界的に有名な古書店街として知られます。いったいなぜ神保町という地名がついたのか、なぜ本の街となったのか、理由がよくわからない方も多いでしょう。そこでこの記事では、神保町の地名由来にくわえて、神保町が本の街となった理由、歴史についても解説します。

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神保町の由来

江戸時代の神田神保町
飯田町駿河台小川町絵図(全図)

江戸時代、現在の神田神保町一帯には多くの武家屋敷が建ち並んでいました。古地図を見ると、その様子が一目瞭然でしょう。

神保町という名称も、元禄2年(1689)、旗本の神保長治が一帯に995坪もの屋敷地を賜ったことに由来します。

江戸時代の古地図に描かれた神田神保町
飯田町駿河台小川町絵図(部分)

しかし、江戸時代は「神保町」とは呼ばれていませんでした。一帯は「小川町」と称されていたのです。

ただ、古地図からは神保氏の屋敷地に面した通りが「表神保小路」と呼ばれていた様子がうかがえます。

江戸時代は江戸城に近い表神保小路がメインストリートでした。現在のすずらん通りです。

一方、表神保小路の北を走る通りは裏神保小路と呼ばれました。現在の靖国通りです。いまでこそ神田神保町のメインストリートとして機能している靖国通りですが、江戸時代は裏道に過ぎなかったのです。

その後、明治5年(1872)、武家地を合わせて町が誕生した際、通称として親しまれていた「神保」という名称が採用され、表神保町、裏神保町、北神保町、南神保町が成立。そして昭和9年(1934)の土地区画整理事業にともない、表神保町と通神保町(裏神保町)、表猿楽町が合併して神保町1丁目、北神保町と南神保町、一ツ橋通町の一部、中猿楽町が合併して神保町2丁目、今川小路1~3丁目が合併して神保町3丁目が成立しました。

さらに昭和23年(1948)、神田区と麹町区の合併によって千代田区が誕生し、現在の千代田区神田神保町1~3丁目が誕生したのです。

神保町が本の街となった理由

神保町が本の街となったのは、明治時代にまでさかのぼります。

明治以降、神田周辺には明治法律学校(現・明治大学)や英吉利学校(現・中央大学)、日本法律学校(現・日本大学)などといった学校が数多く設立され、一帯は学生たちで賑わいを見せるようになりました。

そして安価で書籍を入手したいという学生たちのニーズに応える形で古書店街が形成されるようになったのです。

このとき、古書店の多くは通りの南側に店を構えました。その理由は、日差しで本が日焼けしてしまうことを防ぐためです。

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