「鎌倉殿の13人」予習|鎌倉の歴史舞台・観光名所10選!

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2022年の大河ドラマは鎌倉時代が舞台

 2022年1月9日より、三谷幸喜氏脚本のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がはじまります。主人公は鎌倉幕府2代執権・北条義時(小栗旬)。源頼朝の右腕として活躍するも、野心のなかった義時がどのようにして武士の頂点に上り詰めるにいたったのか。その軌跡を追う物語です。

 鎌倉幕府とは、平安時代に権勢を握った平氏を滅ぼした源頼朝が築いた武士政権のこと。かつては頼朝が征夷大将軍に就任した建久2年(1192)に成立したと教えていましたが、現在は頼朝が後白河法皇から諸国に惣追捕使(のちの守護)と地頭を設置する権利を認められた1185年をもって鎌倉幕府が樹立したとする見方が強くなってきました。これにより頼朝は全国を支配下に置くことになったためです。

 さて、鎌倉幕府は、現在の神奈川県鎌倉市に政庁が置かれていました。鎌倉幕府を舞台としたドラマだけに、来年は鎌倉が観光スポットとして脚光を浴びることはまちがいありません。

 そこで今回は、来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習編として、鎌倉にある歴史の舞台を紹介します。

1.鶴岡八幡宮

 まずは鶴岡八幡宮へ向かいます。鶴岡八幡宮の歴史は、康平6年(1063)、源氏の祖である源頼義が奥州平定後、武神・八幡大神(応神天皇)を祀る石清水八幡宮(京都)を相模国由比郷に勧請したことにはじまります。

 その後、頼朝が治承4年(1180)に神意を受けて現在地へ遷し、幕府の鎮守神として崇拝しました。建久3年(1192)には、鶴岡八幡宮の神前で征夷大将軍叙任の儀も執り行なっています。

 なお、石段の脇にはかつて樹齢1000年を超えるといわれた大きなイチョウの木がそびえていましたが、残念ながら平成22年(2010)に倒壊してしまいました。

2.白旗神社

 鶴岡八幡宮の北東に位置する白旗神社の場所には、もともと頼朝が信仰していた持仏堂がありました。

 正治元年(1199)に頼朝が亡くなると、妻の政子はここに彼の亡骸を葬り、以降、毎年命日には将軍が参詣して仏事が執り行なわれたと伝わります。当時は「法華堂」と呼ばれていましたが、明治の神仏分離令によって仏教の法華堂は撤去され、代わって現在の白旗神社が建立されました。祭神は源頼朝。境内には、頼朝の墓があります。

3.宇賀福神社(銭洗弁財天)

 岩窟内の銭洗水で洗ったお金を使うと増えて戻ってくると言い伝えられている宇賀福神社は、銭洗弁財天と呼ばれて親しまれています。祭神は、市杵島姫命いちきしまひめのみことです。

 一説に、源頼朝が巳の年(文治元年〈1185〉)・巳の月・巳の日の夜に「この水で神仏を供養すれば天下は太平に治まる」とのお告げを受けて創建したと伝わります。

 銭洗水でお金を洗う風習は、5代執権・北条時頼が一家繁栄を願って銭を水で洗ったことにはじまるといわれます。

4.建長寺

 建長寺は建長5年(1253)、鎌倉幕府5代執権・北条時頼が宋の禅僧・ 蘭渓道隆らんけいどうりゅう を開山に迎えて建立した日本初の禅寺。鎌倉市山ノ内にある臨済宗の5代寺院・鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)の第1位にあたります。

 もともとこの地には刑場があったことから、地蔵菩薩を本尊とします。地蔵菩薩は地獄道に堕ちた人々を救済してくれると考えられていました。

 なぜ巨大な禅寺が建てられたかというと、鎌倉街道を進み来る敵襲に対応するためでした。広大な境内は有事の際の駐屯地となり、また多くの堂宇は敵を撃退する拠点となったのです。

5.円覚寺

 鎌倉五山第2位の禅寺、円覚寺は弘安5年(1282)、8代執権・北条時宗が南宋の僧・無学祖元を開山として創建しました。

 著名な舎利殿の呼称は、3代将軍・源実朝が宋から請来した仏舎利を安置したことに由来します。幾度も火災の憂き目にあい、当時の建物は残っていませんが、現在の舎利殿は永禄6年(1563)の焼失後に鎌倉尼五山の一・太平寺の仏殿を移設したもので、国宝に指定されています。

6.明月院

 あじさい寺としても知られている明月院は、明徳元年(1390)、南北朝時代の関東管領・上杉憲方によって創建されました。その名は、憲方の法号・明月院に由来します。もともとは8代執権・北条時宗が創建した禅興寺の塔頭寺院のひとつでしたが、禅興寺は室町時代以降衰退し、明治初期に廃絶。明月院のみがいまに伝わります。

7.高徳院

 本尊の阿弥陀如来像(国宝)が「鎌倉の大仏」として親しまれる高徳院は、天平年間(729~749)に行基が開いたと伝わる古寺です。当初は真言宗のお寺でしたが、臨済宗建長寺派を経て、江戸中期に浄土宗となりました。

 大仏の高さは11.31m。源頼朝の遺志により、暦仁元年(1238)に造営がはじまった大仏は当初木造だったと伝わりますが、台風で倒壊。そこで建長4年(1252)、今度は青銅でつくられ、いまに伝わります。なお、大仏が外に置かれているのは、大仏殿が明応4年(1495)の津波で流されてしまったことためです。

 最近の研究によると、大仏をつくるにあたって宋銭を鋳つぶした可能性が指摘されています。

8.極楽寺

 鎌倉で唯一の真言律宗のお寺である極楽寺は、正元元年(1259)に3代執権・北条義時の3男重時が創建しました。鎌倉幕府の祈願所として隆盛をきわめましたが、江戸時代に荒廃。吉祥院のみがいまに伝わっています。

 なお、鎌倉幕府南西の外郭線にあたる極楽寺坂切通は、古東海道をのぼってくる敵を食い止めるための防衛拠点でもありました。極楽寺も軍事拠点としての役割を期待して建立されたものと考えられます。

9.名越の切通

 鎌倉幕府は三方を山に囲まれた城塞都市でした。周囲の山を人工的に削り取って防御線を構築し、歳への出入口は外郭線に7か所設けられた切通に限定されました。

 そのうちのひとつが、鎌倉幕府南東の外郭線に位置する名越の切通です。

 進軍しにくいよう見通しを悪くしたり、道幅を狭くして一度に大軍が通過できないようにしたりと、あらゆる工夫が凝らされています。現地を実際に歩けば、幕府が鎌倉の政庁を守るためにどのような手段を講じていたのかをまざまざと感じとることができます。

 また、お猿畠の大切岸のように、山腹を垂直に削り取って敵の侵攻を困難にした防御施設もそこかしこに残っています。

10.和賀江島

 貞永元年(1232)、鎌倉幕府は東国の貿易拠点として港湾施設を備えた人工の島を開発しました。それが和賀江島です。日本最古級の築港遺跡といわれています。当時はこの島を通じてさまざまな物資が鎌倉へと運ばれました。唐船(宋)も多数入港していたと伝わります。

 江戸時代にも港として利用されましたが、やがて高波や震災などで徐々に島は失われていき、現在は石のがれきのみがかつての面影を伝えています。

鎌倉の歴史をもっと知りたい方におすすめの書籍一覧

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われわれが認識している古都鎌倉は、鎌倉時代そのままの「古都」ではなく、古都の魅力に惹かれた人々が、時代ごとに付け加えてきた由緒や魅力、いいかえれば「幻想」の集大成と言えるからである。日本人が記憶と想像のなかで愛し続けてきた都市鎌倉の実像と魅力を、源氏以前の時代から現在までの通史をたどることで浮かび上がらせる。

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北条義時が主役の2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台! 日本初の武家政権の地・文化人も愛した海と山・華やぐ花々の社寺が集う古都鎌倉。観光はもちろん、修学旅行・校外学習の班別自主研修や事前事後学習におススメ。

読んで旅する鎌倉時代』高田崇史、赤神諒ほか著(講談社文庫)

蛭ヶ小島:若き源頼朝が流された伊豆の地。当時の支配者は北条氏。
真珠院:頼朝との悲恋の末に八重が命を落とした地。
伊豆山神社:頼朝と北条政子が結ばれた地。
石橋山:頼朝が源氏復興ののろしを上げるも、大庭景親、伊東祐親らの平家軍に大敗した地。
八幡神社:奥州から駆けつけた義経が頼朝と再会した地。
願成就院:北条時政が頼朝の奥州平泉討伐戦勝祈願のため建立した。
銭洗弁財天:頼朝への宇賀福神の夢のお告げを元に、宇賀福神を祀り神仏の供養を行なったのが創建の由来。
三嶋大社:頼朝が源氏復興を祈願して旗揚げをした神社。
鶴岡八幡宮:鎌倉幕府とともにあった彼の地のランドマーク。
修禅寺:頼朝の嫡男・頼家が暗殺された地。

など、鎌倉殿(鎌倉幕府)をめぐる13の地を舞台に、歴史時代小説の手練れ13人が切れ味鋭い筆をふるう。13の掌編を自宅でじっくり味わうも良し、地図と写真を手がかりに今に残る歴史の現場を訪ねるも良し。

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