祇園の花見小路通は江戸時代にはなかった?|京都歴史散歩

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日本史

祇園といえば、古都・京都の風情を象徴する町のひとつに挙げられます。

祇園の茶屋に遊女を置くことが許可されたのは、寛政3年(1791)のことでした。

ただし、寛延元年(1748)8月に大坂竹本座で初演がおこなわれた『仮名手本忠臣蔵』の7段目に、大星由良之助なる人物が敵方の目を欺くため、祇園の一力という茶屋で遊興三昧の日々を送る場面が描かれているので、少なくとも18世紀中頃にはすでに賑やかな花街として知られていたと見られています。

現在の祇園の中心エリアとなっているのは、中央を南北に貫く花見小路通沿いです。通りの南側が花街であり、京格子にすだれが架かる茶屋や料理屋の姿は古都らしい景色といえるでしょう。

しかし、花見小路通は江戸時代には存在していませんでした。花見小路通が開かれたのは明治7年(1874)であるためです。じつは、江戸時代までそこには建仁寺があったのです。

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建仁寺の境内に花見小路通ができた理由

現在も花見小路通の突き当たりにある建仁寺が創建されたのは、建仁2年(1202)のことです。

当初は真言院、止観院を構え、真言、天台、禅を兼修する寺院として建立されましたが、正元元年(1259)に宋の禅僧・蘭渓道隆が入寺して以降、純粋な禅宗寺院となりました。

その後、京都五山の第3位として室町幕府から篤い保護を受けて発展を遂げましたが、応仁の乱(1467~77年)などの相次ぐ戦乱、大火により、荒廃を余儀なくされました。

戦国時代後期から江戸時代にかけて再興がなされ、再び寺運が盛んになった建仁寺でしたが、明治4年(1871)、京都府の政策により境内のほぼ半分にあたる約7万坪の土地が接収されました。こうして建仁寺は、現在の規模となったのです。

接収された土地を譲り受けたのは、祇園甲部お茶屋組合でした。そして組合は祇園の賑わいを生み出すべく、敷地の中央に現在の花見小路通を通すとともに、その通り沿いを花街として開発したのでした。

祇園は江戸時代以来の伝統を誇る花街ですが、その町並みが完成したのは、じつは近代になってからなのです。

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