京都古地図|平安時代の「右京」は人が住めるようなところではなかった!?

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古地図
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発展を遂げた左京、衰退を余儀なくされた右京

 平安京の都は、北辺中央の大内裏から南に延びる朱雀大路を中心軸として、左右に条坊制に基づく市街地が形成された。朱雀大路の東側のエリアが左京、西側のエリアが右京である。

 しかし、都市として発展を遂げていく左京に対して、右京は衰退を余儀なくされた。『文久改正新増細見京絵図大全』(1863年刊)を見ても、一目瞭然である。

 それでは、いつ、どうして右京は衰退したのか。

 その歴史をさかのぼると、すでに平安時代中期頃から右京の衰退が始まっていたことがわかる。

右京から去っていく人々、残されたあばら家

 漢学者・慶滋保胤の『池亭記』によると、十世紀後半の平安京の様子は次のようなものであった。

「朱雀大路を挟んで西の右京は廃れ、人家は少なく、壊れる家はあっても新しく建てられる家はない。右京から去っていく者はあっても、移り住んでくる者はいない」

 もともと右京は、住居としては適さないエリアだった。左京と比べると土地が低く、湿地帯が広がるばかりだったためである。川の氾濫にもたびたび苦しめられていたようだ。

 そのため右京に住んでいた人々は次第に住宅を放棄するようになり、新たな住まいを左京へ求めた。

 廃墟の様相を呈し始める右京に対して、人口が増え続けた左京では土地が足りなくなったことから、それまでの京域の北限であった一条大路(現・一条通)の北側、東限であった鴨川の東側へと都市域が拡大。こうして京の中心は東の左京へ移り、メインストリートであった朱雀大路も平安京の中心軸としての役割を失った。そればかりか、大路の一部が農地化するという現象すら起こった。

 必然と、大内裏もいつしか京の外れに位置するようになってしまったのである。

 さらに16世紀後半、豊臣秀吉が京都の市街地の周囲に御土居を築くと、右京エリアのすべてが市街地の外側に置かれることになった。こうして右京は、王朝文化の1エリアから洛西の農村地帯への変貌を余儀なくされたのであった。

 その後、明治30年(1897)に二条~嵯峨間に京都鉄道が、明治43年(1910)に嵐山電気軌道が開通すると、徐々に右京エリアの都市化が進んでいく。そして昭和6年(1931)4月1日、京極・西院・梅津・太秦・花園・梅ヶ畑、嵯峨町、川岡・桂・松尾村(現在は西京区)が京都市に編入されることになり、右京区が誕生した。

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