京都古地図|源義経と弁慶が出会ったのは現在の五条大橋ではない?どこで出会った!?

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牛若丸と弁慶が戦った橋はどこ?

 牛若丸こと源義経と弁慶の対決――その舞台となったのが、鴨川に架かる五条大橋であることは広く知られています。

 時は、いまから約850年前の平安時代にまでさかのぼります。

 月が美しいある夜、牛若丸は笛を吹きながら五条大橋を渡ろうとしました。とそのとき、突如として弁慶が現われ、勝負を挑みました。

『義経一代記』

 弁慶は刃だけで1メートル以上あったという薙刀・岩融いわとおしを手に牛若丸に襲い掛かります。しかし牛若丸は橋の欄干の間をひらりと飛び回ってはその攻撃をかわし、手にしていた扇で弁慶の頭を打ち据えました。

 やがて弁慶は力尽き、牛若丸に降参。牛若丸の強さに感嘆した弁慶は、家来になることをのぞみました。以降、ふたりは最後まで生死を共にすることになります。

 現在の五条大橋の西側、国道1号の中央分離帯部分に整備された公園には、牛若丸と弁慶の戦いの様子を表現したモニュメントが置かれています。昭和36年(1961)に、京人形師・面庄の13世・岡本庄三氏が手掛けたものです。

 3頭身のユーモラスな像は、かつての歴史をいまに伝えるとともに、多くの観光客の目を楽しませています。

 しかしじつは、牛若丸と弁慶が出会った場所は現在の五条大橋ではないことをご存じでしょうか。

 平安時代の五条大橋は、現・五条大橋から約240メートル北に位置する現・松原橋がある場所にかかっていたのです。

 松原橋は平安時代にはすでに架けられていたと伝わります。なお、現在の橋は昭和10年(1935)の鴨川の氾濫で流失してしまったあとに架けなおされたものです。

豊臣秀吉はなぜ橋を移動させたのか

 五条大橋を現在の場所に移したのは、豊臣秀吉です。

 天正14年(1586)、秀吉は東大寺よりも巨大な大仏の造立に着手。それは文禄4年(1595)頃に完成しました。これがいまに伝わる方広寺です。

 それに伴い、清水寺への参詣路にあたる五条大路(現・松原通)に架けられていた五条橋を、下流の六条坊門小路(現・五条通)につけ替えました。こうすることで、参詣客の足を清水寺ではなく、方広寺に向かわせようとしたのです。方広寺の大仏にちなみ、当時の五条橋は大仏橋と呼ばれました。

『京大絵図』部分

 五条大橋と名を変えるのは、正保2年(1645)、橋が石製に改修されてからのことでした。これに応じて通り名も五条通と改称され、旧五条橋と旧五条大路はそれぞれ松原橋、松原通と改称されたのです。

 現在の松原橋周辺を歩くと、松原通に面して鎮座する五條天神社や、同じく通りに面する光円寺の門前に建つ「親鸞聖人御入滅之地 五条西洞院月輪本荘 花園殿奮跡」の石碑など、「五条」と名のつくものが残ることに気がつくでしょう。これらは、かつての「五条橋」「五条大路」の名残なのです。

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