京都古地図|わずか9年で取り壊された豊臣秀吉の聚楽第はどんな構造だった?【天下人の城】

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古地図
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壮大な規模を誇った聚楽第

 本能寺の変後、織田信長に代わり天下の覇権を掌中に収めた豊臣秀吉は、天正13年(1585)に関白に就任。政治の世界においても実権を掌握しました。

 翌年、秀吉は京都における政庁兼邸宅の建造に着手します。こうして完成したのが、聚楽第です。

聚楽古城之図

 聚楽第は、平安京の大内裏跡に建てられました。当時、大内裏跡はすっかり荒れ果てていたことから「内野」と呼ばれていましたが、秀吉は御所に近く、また、伝統的権威を秘める内野こそが天下人たる自身の邸宅にふさわしい場所だと考えたのです。現在の地図に照らし合わせると、北は元誓願寺通、東は堀川通、西は千本通、南は押小路通で囲まれるエリアに聚楽第があったと推定されています。

 聚楽第の規模は、全長約1800メートルの内郭と、全長約5400メートルの外郭からなる壮大なもの。屋根瓦や内部の壁など、いたるところに金箔が貼られた絢爛豪華な館でした。実際、平成4年(1992)の発掘調査で、本丸の東堀跡から金箔瓦が出土しています。

 天守が備えられたのは、本丸の北西隅だったと考えられています。古地図上「天守」と書かれている場所には、当時4層構造の天守閣があったといいます。

 また、本丸の四隅には櫓台が設置されていたといわれます。さらに三の丸には大名屋敷が設けられたことから、聚楽第が城下町として政治的要素を持っていたことがわかります。大名屋敷は聚楽第の外郭の役割を担いました。 

いまに伝わる聚楽第の記憶

 しかし、聚楽第はわずか9年で取り壊されることになります。

 天正19年(1591)、嫡男の鶴松がわずか3歳で亡くなったことを受け、秀吉は甥の秀次を自身の後継者とし、関白職と聚楽第を譲り渡しました。しかしその2年後、淀殿が秀頼を出産。諦めていた後継者の誕生に、秀吉の心は揺れ動きます。

 こうして秀吉と秀次との関係に徐々に亀裂が入るようになり、文禄4年(1595)、秀吉は謀反の疑いを名目として、秀次に切腹を命じました。このとき、秀次が住んでいた聚楽第の破却も命じられ、建物は跡形なく地上から消え去ったのでした。

 現在では往時の聚楽第の威容をうかがい知ることは難しいですが、聚楽第西外堀跡だと考えられている土屋町通中立売下るの道路の高低差、東堀町や裏門通、如水町(黒田如水邸跡)、主計町(加藤主計清正邸跡)など聚楽第に由来する町名に、当時の威容をわずかながらにしのぶことができます。

 また、西本願寺の飛雲閣は聚楽第の天守を移築したもの、妙覚寺の表門や大徳寺の唐門などは聚楽第の遺構という説が唱えられていますが、それを裏づける確実な史料は存在しません。

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