江戸の古地図|もともと別の島だった佃島と石川島は江戸時代にひとつの島となった!

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古地図
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佃島と石川島の形成

 現在、高層ビルが建ち並ぶ佃島・石川島一帯は江戸時代、隅田川の加工を埋め立てて形成された。

 佃島は、徳川家康が江戸に入った際に家康と縁の深かった大坂佃島の漁民が移住したことにはじまる。このとき彼らが漁の安全と大漁を祈願して建立したのが住吉神社。当初、本殿は南向きだったが、のち江戸城のある西向きとされ、400年以上の時を経た現在も同じ場所に鎮座し続けている。

 一方石川島は寛永年間(1624~44年)、旗本の石川八左衛門重次が干潟を埋め立てて屋敷地を造成したことからその名で呼ばれるようになった。

 『分間江戸大江図』(1726年)を見ると、このころはまだ別々の島であった様子がうかがえる。

『分間江戸大絵図』に描かれた佃島と石川島

 そんな2つの島が一続きとなったのは、寛政2年(1790)のことだった。

 当時、江戸市中には無宿(住所不定で人別帳から除籍されたもの)が溢れ、治安が悪化していた。そうした状況下、火付盗賊改・長谷川平蔵は無宿の更生施設の設置を老中・松平定信に進言する。

 こうしてつくられたのが人足寄場で、このとき、佃島と石川島の間の浅瀬が埋め立てられた。

享和3年(1803)刊の『分間江戸大絵図』。このころには佃島と石川島がひと続きになっている様子がうかがえる。

人足寄場ってどんなところだった?

 寛政2年(1790)につくられた人足寄場は、現代でいうとハローワークのような場所である。油搾り、紙漉き、米つき、わら細工などさまざまな作業を行なう施設が用意され、そこで技術を身につけることができるしくみとなっていた。開設当初の定員は100名だったが、最盛期には600人を収容できるまでに拡張されている。

太田南畝『一話一言』に描かれた人足寄場

 また、作業者には給与も支給された。たとえば油搾りは年間で金800両(約1億円)の収益を上げたといい、そこから道具代など2割を差し引いた金額が給与となった。そのうち3分の1は強制的に徴収され、出所後に自立するための資金として手渡された。

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