江戸古地図|江戸時代の高田馬場は現在の早稲田駅周辺にあった!

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古地図

多くの学生たちで賑わいを見せる現在の高田馬場駅周辺ですが、じつはその由来となった高田馬場はかつて早稲田駅周辺にあったことをご存じでしょうか。今回は、高田馬場の歴史についてご紹介します。

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江戸時代の高田馬場は現在の西早稲田3丁目付近

江戸時代の古地図に描かれた高田馬場
『牛込市谷大久保絵図』(部分)

江戸時代、幕府は武士の騎馬訓練場として各地の村に馬場を設置しました。高田馬場も、高田村に置かれていた馬場に由来します。

そもそも高田村は、越後高田藩主で徳川家康の6男である松平忠輝の母・高田殿に由来する地名と伝わります。歴史をさかのぼれば、源頼朝が平氏追討の兵を挙げる際にここで馬揃えをした、武田信玄が小田原の北条氏を攻めるにあたりこの地で軍勢を整えたともいわれています。

古地図には、清水徳川家の下屋敷近くに「高田馬場」が描かれています。当時は長さ6町(約645m)、幅30間(約53m)あったといいますが、現在には伝わっていません。

高田馬場駅やその周辺の高田馬場という地名から、江戸時代の高田馬場もそのあたりにあったと思われがちです。しかし江戸時代、高田村があった場所は現在の高田馬場駅周辺ではなく、現在の西早稲田3丁目付近だったのです。

歌川広重が描いた名所江戸百景より高田馬場。
歌川広重『名所江戸百景』「高田馬場」

江戸時代の高田馬場は、歌川広重も浮世絵のなかに描いています。浮世絵中、手前に大きく描かれているのは流鏑馬の的です。当時は馬場内で遠射や流鏑馬の訓練がおこなわれていました。

江戸名所図絵に描かれた高田馬場
『江戸名所図会』「高田馬場」

また、馬場を見物に訪れる人々をターゲットとし、高田馬場周辺には多くの茶屋が軒を連ねました。これが現在の茶屋町通りへとつながっていきます。

高田馬場が駅名となった理由

現在の高田馬場駅からは1kmほど離れた場所にあった馬場がなぜ駅周辺の地名となったのでしょうか。そのきっかけとなったのが、明治43年(1910)9月15日に開業した国鉄高田馬場駅でした。

当時、駅の周辺には戸塚村と諏訪村がありました。駅名も、当初は「戸塚駅」が想定されていたそうです。しかしすでに神奈川県に「戸塚駅」があったことから、使用を断念することに。そこで浮上したのが、歴史のある高田馬場の存在でした。

このとき、地元の人々はこれに反対の意見を唱えたと伝わります。しかし当時の鉄道省は高田馬場を駅名として採用したのでした。

その後、高田馬場駅の名称が地域に浸透するなかで、昭和50年(1975)、新宿区は駅周辺の町名をそれまでの諏訪町、戸塚町などから「高田馬場」へと変更したのです。

こうして実際の馬場跡とはまったく関係のない地に高田馬場という名称が冠されることになったのでした。

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