江戸時代

日本史

京都・伏見に残る城下町の痕跡を歩く|京都歴史散歩

16世紀、豊臣秀吉は伏見に「指月伏見城」「木幡山伏見城」の2つの城を築きました。 指月伏見城は慶長元年(1596)閏7月12日に起きた大地震で倒壊してしまいましたが、秀吉はただちに木幡山を城地として選び、より強固な城郭と城下町をつくりあげま...
日本史

祇園の花見小路通は江戸時代にはなかった?|京都歴史散歩

祇園といえば、古都・京都の風情を象徴する町のひとつに挙げられます。 祇園の茶屋に遊女を置くことが許可されたのは、寛政3年(1791)のことでした。 ただし、寛延元年(1748)8月に大坂竹本座で初演がおこなわれた『仮名手本忠臣蔵』の7段目に...
日本史

寺町通に寺院を集めた秀吉の目的は?繁華街となった理由は?|京都歴史散歩

京都の南北の通りのひとつである寺町通は、通り沿いに多くの寺院が建ち並ぶことからつけられました。 北は鞍馬口通の浄善寺から南は五条通の宗仙寺まで、およそ5キロメートルの通り沿いには、じつに100余りの寺院が存在します。 寺町通の歴史は、平安京...
江戸時代

ビルに刺さった錦天満宮の鳥居はいつからこうなっている?江戸時代と現代を比較!

京の台所・錦市場の近くに鎮座する錦天満宮といえば、鳥居がビルの壁で突き刺さっていることで知られますが、いったいいつからそのようになっているのでしょうか。この記事では、錦天満宮の鳥居の謎に迫ります。
日本史

京都古絵図|鴨川に並行して高瀬川が掘削された理由|角倉了以・素庵父子の活躍

高瀬川の舟運に商機を見出した角倉了以  京都市街地を流れる高瀬川は、慶長18年(1613)に掘削された全長10キロメートル、水深30センチメートルほどの人工河川です。  二条大橋付近で鴨川の水を引き入れ、鴨川と並行するように南流し、南区東九...
日本史

年末に大掃除するようになったのはいつから?江戸では主人を胴上げして厄払い!?大掃除の由来

新年を迎えるための大切な行事・煤払い  現代では、12月31日の大晦日に大掃除を行ない、身辺を清らかにして新年を迎える家庭が一般的ですね。  しかし近世では、12月13日に煤払いと呼ばれる大掃除が行なわれました。  大掃除のことを煤払いと呼...
日本史

【江戸の風俗】遊廓ってどんな場所?遊ぶためのルールは?江戸幕府公認の遊廓・吉原を早わかり!【庶民の憧れ】

3回通って馴染み客となる  江戸で唯一公認された遊廓・吉原は、江戸に住む男性にとっては憧れの場所だった。  しかし太夫など高級遊女と遊ぶには高額が必要で、また、厳格なルールを守らなければいけなかった。それを知るのに役立ったのが『吉原細見』と...
日本史

【早わかり忠臣蔵】赤穂浪士はどんな「辞世の句」を遺した?

討ち入り後の赤穂浪士  元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は吉良邸へ討ち入って主君の仇・吉良上野介義央の首級を挙げ、見事本懐を遂げた。  その後、幕府は彼らの行動を「主人の仇討ち」とは認めず、「徒党」であると判断。公儀を恐れない行...
日本史

【早わかり忠臣蔵】赤穂浪士討ち入りのルートを歩く

吉良、討ち取ったり  時は元禄15年(1702)12月14日深夜、元赤穂あこう藩の浪士たちは主君・浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのりの仇である高家こうけ・吉良上野介義央きらこうづけのすけよしなかの屋敷に討ち入り、見事討ち取った。世に知...