旧吉原と新吉原
地下鉄日比谷線・三ノ輪駅を出て明治通りを抜け、土手通り沿いを歩くと、吉原大門交差点へ至る。この交差点の西・仲之町通りは、江戸時代、幕府公認遊廓・吉原のメインストリートだった場所である。
吉原遊廓が開業したのは、元和4年(1618)頃と伝わる。廓の総面積は約1万4520坪。当時、周囲は葦や茅が生い茂るばかりの荒れ地で「葦原」と呼ばれた。しかし「葦」は「悪し」につながることから、縁起を担いで「吉」という字が用いられ、「吉原」となった。
もともと吉原遊廓の設置は、江戸市中に点在していた遊所を1か所にまとめるとともに、市街地から切り離すという目的があった。ところが、江戸の発展とともに市街地が拡大。期せずして、吉原は市街地の中心部に隣接するようになってしまう。
そこで明暦3年(1657)の明暦の大火を契機として、幕府は吉原を浅草千束村(現・台東区千束)に移した。これにより、旧地は元吉原、新地は新吉原と呼ばれるようになった。新吉原の廓の総面積は約2万606坪。約270軒の妓楼が置かれ、最盛期には3000人を超える遊女が生活を営んでいた。遊女以外の従業員も5000人以上働いていたといわれる。
受け継がれる吉原の名残
『今戸箕輪浅草絵図』(1849~62年刊)上、浅草寺の北に位置し、堀で囲まれた場所が新吉原である。
この堀は「お歯黒どぶ」という。遊女たちが勝手に新吉原から逃亡しないように設けられたものだ。幅は約2間(約3.6メートル)。遊廓内の下水の処理という役割も果たした。
江戸時代、吉原は一流の社交場としての格を持ち、江戸文化の最先端を担う場となったが、明治になると、花柳界に客を奪われて衰退。それでも細々と営業は続けられ、戦後、GHQが公娼廃止令を発しても、赤線地帯のひとつとして、警察黙認のもと、存続した。しかし昭和33年(1958)、売春防止法の施行に伴い、吉原は、その歴史に幕を下ろすこととなった。
こうして遊廓はなくなり、吉原という地名も千束4丁目へと変貌を遂げたが、お歯黒どぶが埋め立てられた跡は細い小道となっており、かつての堀の姿をうかがうことができる。
また、町割りも当時の姿をほぼそのままに残しており、大見世の跡には大きな風俗店、小見世の跡には小さな店、さらに遊女たちが住んでいた場所はアパートになるなど、風俗街としての連続性がいまに受け継がれていることがわかる。
一方、明暦元年(1655)の開山である浄閑寺の境内には、新吉原で亡くなった遊女を祀る新吉原総霊塔が建つ。当時は読経も供養もされることなく、ただ穴のなかに投げ込まれて埋葬された。
御朱印に描かれる遊女も、どことなく悲しげな表情を浮かべているようだ。
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