【『キングダム』時代の戦いを早わかり⑬】中華平定|秦王政が始皇帝を称す【春秋戦国時代】

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宿敵李牧を謀略で殺害した秦

 呂不韋の死に伴って親政を始めた政は、いよいよ天下統一への道を歩み出しました。

 その最初の標的として選んだのは、当時、もっとも国力が衰えていた韓でした。前231年、韓へ侵攻した秦軍が南陽の地を奪うと、政は(ない)()(とう)をそこの仮長官として派遣。そしてその翌年、謄が韓の国都に攻め込み、韓王・(あん)を生け捕りにしました。安は秦に降伏。こうして韓は滅亡したのでした。これによって秦領の一部となった元・韓領には、(えい)(せん)(ぐん)が置かれました。

 ここに、秦は中原の半分を手中に収めました。

 次なる標的は趙です。しかし趙には、()(ぼく)という宿敵がいました。前236年から前232年にかけて秦軍が趙へ侵攻した際、秦軍は李牧相手に大敗を喫していたのです。

 そこで政は、まず謀略を用いて李牧の排除をもくろみました。趙の(ゆう)(ぼく)(おう)の寵臣・(かく)(かい)に賄賂を贈ると、李牧が謀反を企んでいるとのデマを遷に吹き込ませたのです。信頼していた郭開の言葉を信じた幽繆王は李牧を捕らえるや、殺害しました。

 このことが、趙を亡国へと導く要因となりました。秦将・(おう)(せん)が難なく(せい)(けい)を突破すると、(きょう)(かい)は北上して(だい)を攻略し、(よう)(たん)()は河内の軍を率いて南から趙の国都・邯鄲へと迫ります。こうして南北から趙領を蹂躙していく秦軍に対して、前228年、幽繆王はあえなく降伏しました。趙の国土は2分され、それぞれ邯鄲郡、鉅鹿郡が置かれ、秦領に組み込まれました。このとき、趙の太子・()は代に逃れて代王として自立。燕と同盟を結び、秦に抵抗を続けました。

王翦・王賁父子による快進撃

 趙を滅ぼした王翦は、そのまま軍を北へと進め、前226年には燕の国都・(けい)を制圧します。このとき、燕王・()は精兵とともに(りょう)(とう)へと逃れました。

 前225年、秦は王翦の子・(おう)(ほん)を将として魏への侵攻を開始。王賁は黄河を利用して魏の国都・大梁を水攻めにすると、魏王・()を降伏させ、魏を滅亡へと追い込みました。

 前224年、60万の兵を率いた王翦は楚への侵攻を開始。前223年、王翦は(もう)()とともに楚の国都・寿(じゅ)(しゅん)を落として楚王を捕らえ、楚を滅亡させました。

 前222年には、王賁が遼東へと進軍。逃れていた燕王・喜を捕虜とし、燕を滅ぼします。さらに王賁は代王嘉を捕らえ、代をも滅ぼしました。

 こうしてわずか10年の間に秦は諸国を滅ぼし、残るは斉のみとなりました。このとき、すでに秦は斉の宰相・(こう)(しょう)をはじめ、重臣たちを(ろう)(らく)していました。そのため王賁が斉の国都・臨淄を取り囲んだとき、斉王・(けん)は戦うことなく秦に降伏しました。建はその後、(きょう)の城に監禁され、飢えて死んだと伝わります。

 こうして秦は、ついに天下を統一しました。政は自らを「始皇帝」と称し、戸籍制度の設置、文字・貨幣・()(りょう)(こう)の統一など中央集権化のための施策を次々と行ない、その支配体制を磐石なものとしていきました。

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