橋をかけなかった幕府の思惑とは?
東京都の東部を流れる隅田川は奥秩父を水源とする荒川の分流で、北区の岩淵水門から東京湾へ注ぐ延長約25キロメートルの川である。吾妻橋から下流は大川、浅草川とも呼ばれた。現在の隅田川流域を歩くと、千住大橋や桜橋、言問橋、吾妻橋、両国橋など数多くの橋がかかっていることに気がつくだろう。しかし江戸時代初期、幕府は隅田川に橋をかけようとはしなかった。文禄3年(1594)に架設した千住大橋が、唯一の橋だったのである。
いったいなぜ隅田川に橋は架けられなかったのか。
その背景には、東側から江戸市中へ侵入してくる敵の経路を遮断するという思惑があったという。また、当時は川を渡るには舟を使うのが一般的であり、多額の費用をかけてまで橋をかける必要がなかったのも、理由のひとつだといわれている。
橋がないことで起こった悲劇
ところが、橋がないことが原因で悲劇が生まれた。明暦3年(1657)、江戸市中は大火に見舞われ、10万人以上もの死傷者を出した(明暦の大火と呼ぶ)。このとき、川を渡れずに逃げることができなかった人の遺体が、隅田川に多数浮かんだと伝わる。
幕府はこの惨事を繰り返さないため、万治2年(1659)、木造の両国橋をかけた。当初、橋は「大橋」と呼ばれたが、武蔵と下総両国を結ぶ橋だったことから、両国橋と呼ばれるようになる。ただし、このときは現在地よりも20メートルほど下流にかけられた。
また、両国橋のたもとには防火のための火除け地が設けられ、その空き地を利用して飲食店や見世物小屋などが建ち並んだ。享保年間(1716~35年)には川開きの余興として花火が打ち上げられるようになり、両国橋一帯は多くの庶民で賑わいを見せる盛り場として発展を遂げた。
しかし、明治30年(1897)の花火大会の最中、詰め掛けた人々の重さに木造橋が耐えられずに崩壊、数十名の死者を出す事件が起こる。そこで明治37年(1904)、両国橋は鉄橋へとかけ替えられた。
両国橋が現在地へ移されたのは、昭和7年(1932)のこと。大正12年(1923)の関東大震災で甚大な損害を被ったため、隅田川にかかるほかの橋とともにより耐火・耐震性に優れた橋へと生まれ変わったのである。
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