魏と対決する道を選択した韓
桂陵の戦いで孫臏の戦略の前に大敗を喫した魏は、その後、国力の回復に力を入れざるを得ませんでした。そうした雌伏の時は12年にも及びましたが、前341年、魏の恵王は再び外征を開始します。
次なる標的は、韓。これより前、恵王は会盟を主催し、諸侯の列席を求めましたが、韓王はこれを無視しました。斉に惨敗を喫した魏の姿を見て、斉と同盟を結んで魏と対峙する道を選んだのです。この韓王の態度に、恵王は激怒。韓に軍を送り込んだのでした。
馬陵で魏軍を待ち受ける斉軍
魏軍の侵攻を前に、韓は斉に救援を要請。斉の宣王は、田忌と孫臏を援軍として派遣しました。斉軍は韓の都・南鄭ではなく、魏の都・大梁を目指して進軍します。
魏将・龐涓は二度と同じ轍は踏まぬとばかりに急ぎ軍を取って返すと、魏領へ侵攻する斉軍と対峙、斉軍を退けました。しかし、これは孫臏の策だったのです。
じつは戦前、孫臏は田忌にこう進言していました。
「勇ましく、血気盛んな魏軍は我が斉軍を侮っており、斉の兵士を臆病者ばかりだと見なしております。与えられた条件を利用し、勝利を手に入れてこそ戦上手といえましょう。兵法にも『利を貪って100里の道を駆け続けるには、たとえ優れた将であってもうまくいかない。50里の道を利を貪って駆け続ける場合、到着するのは兵の半数である』とあります。斉軍が魏領に入ったら10万人分の竈をつくらせ、その翌日には5万人分、翌々日には3万人分をつくらせましょう」
はたして、撤退する斉軍の追撃に入った龐涓は、斉軍の竈が日に日に減っていく様子を見て勝利を確信します。竈の数を見て、半数以上の兵士が脱走したと勘違いしたのです。勝利を確信した龐涓は斉軍を殲滅せんと、精鋭の騎兵だけを引き連れて昼夜兼行で駆け続けました。
この魏軍の動きは、逐一孫臏のもとに届けられました。そして魏軍の行動速度から考えると、日が暮れる頃には馬陵に到達するであろうと推測します。
馬陵は丘陵地帯に位置しており道が狭く、また道の両側には険峻な山がそびえ、伏兵を配するには絶好の場所でした。
そこで孫臏は、馬陵を龐涓の死に場所として選択します。大木の幹を削り、そこに「龐涓はこの大木の下で死なん」と書くと、道の両側に潜ませた弩兵1万に対して、松明の灯が見えたら一切に射撃するように命じました
いざ、龐涓が馬陵に至ったとき、幹に文字が書かれている大木を見つけました。よく見ようと松明で照らさせたそのとき。大量の矢が魏軍目掛けて降り注ぎました。魏軍は突然の事態に大混乱に陥り、挙句の果てに同士討ちを始める始末でした
「あの小童に名を挙げさせてしまったか」
大敗を悟った龐涓は、自ら首を刎ね、自害を遂げました。
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