日本史

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京都古地図|幕末の古地図に「菊の紋」が描かれている理由

時代によって異なる禁裏の描き方  明治2年(1869)に東京奠都がなされるまで、京都御所は天皇の御在所であり、この場所で数々の儀式が執り行なわれてきた。古地図上では「禁裏きんり」と記される。みだりに内裏内へ入ることを禁じていたことから、そう...
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よく「碁盤の目」といわれる京都の町割り、本当は碁盤目状ではない!

碁盤目状の平安京  延暦13年(794)に日本の都としてつくられた平安京は、中国の都・長安や洛陽をモデルとして大路・小路を碁盤目状に配した町割りがなされたことで知られる。これを「条坊制」じょうぼうせいという。  平安時代に成立した法典『延喜...
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京都古地図|京都には江戸時代と変わらぬ場所に建ち続ける公家屋敷がある!

明治維新後、荒廃を余儀なくされた京都  現在、京都御苑として整備されている東西約600メートル、南北約1200メートルの広大な敷地のなかには、京都御所以外の建物はほとんどない。 京都御所紫宸殿。  しかし『京大絵図(1686年刊)』を見ると...
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江戸の古地図|いまに受け継がれる江戸幕府公認遊廓・吉原の名残

旧吉原と新吉原  地下鉄日比谷線・三ノ輪駅を出て明治通りを抜け、土手通り沿いを歩くと、吉原大門交差点へ至る。この交差点の西・仲(なか)之(の)町(ちょう)通りは、江戸時代、幕府公認遊廓・吉原のメインストリートだった場所である。  吉原遊廓が...
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江戸の古地図|江戸幕府が隅田川に橋をかけなかった理由|橋がないことで起きた悲劇

橋をかけなかった幕府の思惑とは?  東京都の東部を流れる隅田川は奥秩父を水源とする荒川の分流で、北区の岩淵いわぶち水門から東京湾へ注ぐ延長約25キロメートルの川である。吾妻橋あづまばしから下流は大川、浅草川とも呼ばれた。現在の隅田川流域を歩...