日本史

古地図

京都古地図|京都御所の角が折れ曲がっている謎

角が欠けた「猿が辻」  古くから天皇の御在所であった京都御所は、今日では総面積約87万平方メートルという広大な公園・京都御苑のなかにたたずんでいる。  江戸時代、京都御所は幾度となく火災の憂き目にあい、焼失のたびに再建されてきた。現在見るこ...
古地図

京都古地図|古地図に引かれた黒くて太い線は豊臣秀吉が築いた御土居跡!

豊臣秀吉が京都を守るために築いた土塁  江戸期の京都の姿を描いた『京大絵図』を見ると、市街地を囲むように黒い線が引かれていることがわかる。この線は、「御土居」と呼ばれる土塁を地図上に記したものである。  御土居は市街地の防衛と、鴨川などの河...
古地図

江戸の古地図|もともと別の島だった佃島と石川島は江戸時代にひとつの島となった!

佃島と石川島の形成  現在、高層ビルが建ち並ぶ佃島・石川島一帯は江戸時代、隅田川の加工を埋め立てて形成された。  佃島は、徳川家康が江戸に入った際に家康と縁の深かった大坂佃島の漁民が移住したことにはじまる。このとき彼らが漁の安全と大漁を祈願...
日本史

【江戸の風俗】遊廓ってどんな場所?遊ぶためのルールは?江戸幕府公認の遊廓・吉原を早わかり!【庶民の憧れ】

3回通って馴染み客となる  江戸で唯一公認された遊廓・吉原は、江戸に住む男性にとっては憧れの場所だった。  しかし太夫など高級遊女と遊ぶには高額が必要で、また、厳格なルールを守らなければいけなかった。それを知るのに役立ったのが『吉原細見』と...
戦国時代

【早わかり戦国時代】戦国武将必須の教養!茶の湯を家中統制の道具として利用した織田信長

茶の湯は戦国武将必須の教養だった  日本における茶の湯の歴史は、平安時代末期、臨済宗の僧・栄西が宋から喫茶法を持ち帰ったことにはじまるという。ただしこの頃の茶は飲み物としてというよりも、「薬」として用いられていたようである。  その後、室町...
古地図

江戸の古地図|紀尾井坂・仙台坂・南部坂……江戸っ子はなぜ坂に名前をつけたのか

東京に坂が多いのはなぜ?  台地と低地上に形成された東京には、とにかく坂が多い。千代田区の九段坂や渋谷区の道玄坂など、名前のついた坂はじつに700以上もあるといわれる。  これらの坂のほとんどは、江戸時代以降に形成されたものだ。  徳川家康...
戦国時代

【早わかり戦国時代】織田信長の威光を世に知らしめた「京都御馬揃」とは?

20万人以上が詰めかけた一大イベント  天正8年(1580)閏3月、石山本願寺の顕如けんにょは朝廷の斡旋を受け、同所を織田信長へ明け渡すことを決した。ここに、元亀元年(1570)9月以来続いていた石山合戦の幕が閉じる。  一方この頃、明智光...
古地図

【江戸のなぞなぞ①】江戸時代の地名クイズで遊ぶ

これは、江戸時代に制作された『無筆名所案内図』である。地名や人名、ものの名前を音が共通する絵に置き換え、それがいったい何を示すのかを当てる江戸時代のなぞなぞだ。一般に「判じ絵」と呼ばれる。  タイトルにつけられた「無筆」は「読み書きのできな...
古地図

京都古地図|船岡山は京都の町の基準点だった!?

清少納言も褒め称えた景勝地  京都市の北部に、標高約112メートルの船岡山(ふなおかやま)はそびえる。その威容がまるで船のようであることから、または船を伏せた形に似ていることから、その名がついたといわれる。  現在、山頂は公園として整備され...