東京に坂が多いのはなぜ?
台地と低地上に形成された東京には、とにかく坂が多い。千代田区の九段坂や渋谷区の道玄坂など、名前のついた坂はじつに700以上もあるといわれる。
これらの坂のほとんどは、江戸時代以降に形成されたものだ。
徳川家康が江戸の町づくりに本腰を入れたのは、慶長8年(1603)に幕府を開いて以降のことである。
このとき、大名や旗本たちの住む武家地はおもに台地上に、商人や職人らが住む町人地はおもに低地につくられた。そして両町を結びために台地と低地を結ぶ坂道が整備されたのである。
武士たちは買い物や遊興のために坂を下り、商人たちは武家屋敷への商売のために坂をのぼった。
ところが、ここでひとつ問題が発生する。
基本的に武家地には町名がつけられておらず、いざ出かけようとしても目的地を言葉で言い表わすことができなかったのだ。
そんななか、建物を探すための目印となったのが、江戸市中に点在していた坂だった。人々はこれらの坂に名前をつけることで、その地域のランドマークとしたのである。
坂の名前は単純明快
江戸っ子たちは、近くに存在する建物や、坂の形状・雰囲気、坂から見える風景などにちなんで坂の名前をつけた。
なかでも大きな目印となったのが、大名屋敷であった。たとえば東京都千代田区紀尾井町にある「紀尾井坂」は紀州徳川家、尾張徳川家、彦根藩井伊家の屋敷の角に位置していたことにちなむ。
また、港区赤坂のアメリカ大使館宿舎脇を南東に下る「南部坂」は盛岡藩南部家の屋敷にちなんでつけられた。
港区南麻布と品川区東大井にある「仙台坂」も、仙台藩の下屋敷があったことにちなむものである。
大名屋敷だけでなく、「善光寺坂」や「天神坂」のように、坂近くに鎮座する寺社がその名の由来となるケースもあった。
一方、坂から富士山がよく見えたから「富士見坂」、江戸湾が見下ろせるから「汐見坂」といったように、眺望から派生して名前がつけられることも多々あった。ただしこれらの坂は特定の地域に限ったのものではなかったので、同じ名前を持つ坂が江戸市中の至るところに点在することとなった。とくに士見坂の名を持つ坂は江戸に18も存在していたという。江戸っ子が富士山を信仰していた様子がうかがえよう。
そのほか、坂をのぼるときに胸をつきそうになるくらい勾配が急な「胸突坂」、転ぶと団子のように転がってしまうほどの勾配を持つ「団子坂」、ネズミがようやく通れるほど狭い「鼠坂」、樹木が生い茂って昼間でも薄暗い「暗闇坂」など、坂の勾配や雰囲気なども命名する際の基準となった。
なお、新宿区の「庚嶺坂(2代将軍・徳川秀忠が中国の梅の名所から名づけたと伝わる)」や文京区の「昌平坂(5代将軍・徳川綱吉が昌平校にちなんで命名したと伝わる)」など、江戸には将軍が直々に命名した坂も存在した。
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