埋め立てられた日比谷
慶長8年(1603)、江戸幕府を開いた徳川家康は、その翌年、江戸城の大増築工事に着手した。慶長10年(1605)、江戸城の第一次天下普請が開始される。
このとき、石材や木材などの輸送の荷受場となったのが、日比谷入江だった。当時は、現在の丸の内、芝大門、新橋、日比谷公園、霞ヶ関付近に海岸線があり、江戸城近くにまで日比谷入江が入り込んでいたのである。また、それを挟んで江戸前島と呼ばれる半島状の陸地が形成されていた。
江戸前島の東側には江戸湊があり、水運の拠点として日々多くの舟が行き交っていた。
慶長7年(1602)頃の江戸の様子を描いたといわれる『慶長江戸図』を見ると、江戸城のすぐそばにまで入江が入り込んでいる様子を見て取れる。入江の先端は、現在の東京駅丸の内口西側一帯あたりだと見られている。
江戸が発展する以前、この一帯では海苔やカキの養殖が行なわれていたという。日比谷の干潟や浅瀬には、海苔やカキを付着させ、収穫するための竹や木の枝「篊」が数多く突き立てられた。日比谷という地名は、そこから生まれたものだと伝わる。また、一説に江の入り口(戸)にあたることから、「江戸」という地名が生まれたという。
しかし、日比谷入江の水深は浅く、あまり舟運には適していなかった。そこで家康は道三堀や外堀を掘って水路とし、代わりに日比谷入江を埋め立てて新たに宅地を造成したのであった。
埋め立てられた日比谷入江は、諸大名の屋敷地として与えられた。諸大名は国元から多くの労働力を投入して屋敷地を干拓し、いわゆる大名屋敷を建設。こうして一帯は「大名小路」と呼ばれた。
明治以降の日比谷
明治に入ると、日比谷の大名屋敷は取り壊され、明治4年(1871)、陸軍操練場が設置された(のち日比谷練兵場へと改称)。
明治中期になると、築地から霞ヶ関にかけて官庁街を造成する計画が立てられたため、日比谷練兵場は現在の明治神宮外苑へと移された。
しかし、日比谷はもともとが埋め立てによって形成された土地であったことから地盤が弱く、当時の技術ではこの場所に大型建造物をつくることができなかった。
そこで公園として整備されることとなり、明治36年(1903)、現在の日比谷公園が完成したのであった。
以降、日比谷公園は、第二次世界大戦中は軍用地として使用され、敗戦後は米軍に接収されるという憂き目にあうが、公園の構造や建物は開園当時とほとんど変わらぬまま受け継がれている。
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