【早わかり戦国時代】織田信長の威光を世に知らしめた「京都御馬揃」とは?

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戦国時代
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20万人以上が詰めかけた一大イベント

 天正8年(1580)閏3月、石山本願寺の顕如けんにょは朝廷の斡旋を受け、同所を織田信長へ明け渡すことを決した。ここに、元亀元年(1570)9月以来続いていた石山合戦の幕が閉じる。

 一方この頃、明智光秀が丹波を、羽柴秀吉が播磨・但馬を、柴田勝家が加賀・能登を平定し、信長による天下統一事業は着実に進展していった。

 そうした状況下の天正9年(1581)正月15日、信長は安土城下で左義長さぎちょう(火祭)と馬揃うまぞろえを行なった。華やかな装束を身にまとった諸将らが馬に乗り、爆竹を打ち鳴らしながら馬場を駆け抜け、そのまま町を行進したのである。なお、信長は黒い南蛮笠をかぶり、赤い頬当てをつけ、唐錦の陣羽織を着用していたという。

 この成功に気を良くした信長は京でも趣向を凝らした馬揃を行なうべく、23日、光秀に準備を命じた。

 一方、安土城下での馬揃には近衛前久このえさきひさなどの公卿衆も参加しており、その評判はたちまち京中に広まった。正親町おおぎまち天皇も噂を聞きつけたのであろう、信長に対し、都でも趣向の異なる馬揃を見たいと要望(『御湯殿上日記』)。

 信長はすぐにこれに応じ、五畿内隣国の大名や諸将をほぼすべて召集すると、2月28日午前8時頃、内裏の東に設けた馬場で馬揃を挙行した。陣容は以下の通りである。

一番 丹羽長秀と摂津衆・若狭衆・山城衆

二番 蜂屋頼隆と河内衆・和泉衆・根来衆

三番 明智光秀と大和衆・上山城衆

四番 村井貞成と根来衆・上山城衆

五番 一門衆(織田信忠・信雄・信包など)

六番 公家衆(近衛前久・正親町季秀・烏丸光宣など)

七番 旧幕臣衆(細川昭元・細川藤賢・伊勢貞景など)

八番 馬廻・小姓衆

九番 越前衆・越中衆(柴田勝家・前田利家・佐々成政など)

十番 信長直属部隊(弓衆・先手頭・厩奉行など)

 ルイス・フロイスの『日本史』によると、この馬揃を見物するために20万以上もの群衆が集まったという。

 天皇や公卿衆のみならず、諸国からも大勢の見物人が押し寄せたこの馬揃は「天下人」たる信長の権威を印象づける絶好の機会となり、こうして信長の威光はますます世に轟くこととなった。

 天皇はこれを喜び、3月9日、信長を左大臣に任じようとしたが、信長は誠仁さねひと親王(後陽成ごようぜい天皇の父)への譲位がなされたのちに受けると返答した。

信長と天皇の関係

 じつはすでに天正元年(1573)の時点で、信長は正親町天皇に譲位を打診していた。当時朝廷は儀式を行なう費用を工面できないほど困窮していたので、天皇は信長の提案を喜んで受け入れたと伝わる。「譲位=政治の世界から身を引く」と捉えられがちであるが、当時は子に位を譲った天皇は上皇となって引き続き政治の実権を握るのが通例だったためだ。

 とはいえ戦国の動乱期に入って以降、後土御門天皇(在位1464~1500年)、後柏原天皇(在位1500~26年)、後奈良天皇(在位1526~57年)はそれぞれ存命中に皇太子に位を譲ることなく没してしまったため、100年以上にわたって上皇が誕生することはなかった。そのため正親町天皇は信長の申し入れを「朝家再興のときが到来した」として歓迎したのであった。

 これをもって信長が皇位を簒奪しようとしたなどともいわれるが、実際は朝廷と信長との関係はすこぶる良好であり、協調体制にあったと考えることができよう。

 しかし結局、政情不安などを理由として譲位の儀は延期となり、天正10年(1582)6月2日、信長は本能寺で光秀に討たれてしまう(本能寺の変)。

 その後、正親町天皇がようやく孫の和仁かずひと親王(後陽成天皇)に譲位したのは、秀吉がほぼ天下を手中に収めた天正14年(1586)のことであった。

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