江戸の町を焼き尽した大火
「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるように、江戸では複数の町を焼く火事がじつに1000回近く発生した。とくに明暦3年(1657)の明暦の大火は、江戸の町の約6割を焼き尽くし、10万人を超える死者を出すほどの大惨事となった。
江戸城の天守閣、本丸、二の丸も焼け落ち、大名屋敷や旗本屋敷の多くも焼失した。
火災が頻発した原因は、南北に細長く延びて形成された江戸の町割と、冬の強い北西風と南西風にある。ひとたび火災が起こると、強風に煽られて瞬く間に火が燃え広がってしまったのである。
この反省を活かし、幕府は火災に強い新たな町づくりに乗り出す。こうして設けられたのが、火除地や、道幅の広い広小路だ。『東都下谷絵図』に描かれている「下谷広小路」がそれである。
もともと下谷広小路は、将軍が上野・寛永寺に参詣するための参道だった。
幕府はその幅員を広げ、火災による延焼を防ごうとしたのであった。現在の上野公園の入り口から、松坂屋新館北側付近までが、当時の下谷広小路の範囲だった。
盛り場として発展を遂げる
火除地や広小路には恒常的な建物を建てることは禁止されたが、すぐに撤去することができる建物であれば建設の許可が下りた。
そこで仮設の露店や見世物小屋などが建ち並ぶようになり、火除地や広小路は盛り場として発展を遂げるようになった。当初は朝に設置して夕方に撤去するように申し渡されたが、18世紀になると常に置かれるようになった。
下谷広小路の場合、もともとが寺社の門前町であったことから、茶店や見世物小屋がつくられるとますます賑わいを見せるようになり、江戸を代表する盛り場となった。浄瑠璃や軽業、コマ廻し、ゾウやラクダといった見世物小屋などもあったという。
なお、仮設店舗の設置を幕府に願い出たのは火除地周辺の町々や寛永寺であったという。当時、火除地の管理にあたったのは幕府ではなく周辺の寺社や武家地、町人地であった。そこで管理費を賄うべく、店舗を設置して地代収入を得ようとしたのである。
その後、19世紀の天保の改革の際にこれらの店は撤去を余儀なくされるが、安政4年(1857)、床店のみ再興が許可された。
明治に入ると下谷広小路は上野広小路と呼ばれるようになる。明治16年(1883)、上野に鉄道駅が開業すると、広小路は繁華街としてさらなる賑わいを見せるようになった。
現在、かつての広小路の跡をうかがうことは難しいが、上野広小路という地名や駅名が、江戸の火除地の名残として残されている。
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