戦国の七雄の登場、いち早く台頭した魏
前403年、晋国が分裂して趙、韓、魏という3つの国が誕生すると、時代は列国が互いに覇をかけて争う戦国の乱世へと突入しました。
弱小勢力が雄国によって次々と淘汰されていく状況下、趙、韓、魏、斉、燕、楚、秦の7国が台頭。これらの国々を総称して、「戦国の七雄」といいます。
戦国の七雄のなかで、まず勢力を伸ばしたのが魏でした。
前369年、兄との後継者争いを制して即位した3代恵王は、祖父・文侯、父・武侯に仕えた兵法家・呉起の「武卒制」を再開し、軍事力の強化につとめます。
武卒制とは、兜をかぶって重い皮鎧を身につけ、銅剣を佩き、50本の矢を入れた箙(容器)と戈を背負い、3日分の食糧を持って明け方から正午までに約100里(約40キロメートル)走ることができれば、晴れて兵士になることができるという厳しい入隊制度のことです。
しかしひとたび兵士になることができれば、その一族の者は税の免除や土地・家屋の支給といった優遇措置がとられたため、みな試験に合格することを夢見て必死に鍛錬に励みました。そうした入隊試験を経て組織された精鋭軍の総数は約20万。こうして魏は、当時、中原諸国のなかでももっとも強大な国力を誇るに至りました
そうしたなか、恵王は自らを「王」と称するようになります。これは、周王の臣下ではないということを暗に示すものであり、独立国として中華全土に君臨することを志したものでした。
魏の第一の標的となったのは、隣国・趙。前353年、恵王の命を受けた将軍・龐涓は趙への進軍を開始し、趙の都・邯鄲を包囲します。
魏軍の猛攻の前に、いよいよ耐え切れなくなった趙王は、斉へ救援を要請。斉の威王はこれに応じると、田忌を将軍、孫臏を軍師に任じて援軍を派遣しました。
魏軍と斉軍の激突、はたして勝敗は
このとき、邯鄲を目指して進軍しようとした田忌に対し、孫臏はこう献策します。
「魏の精鋭部隊が出払っているいま、魏の都・大梁にはおそらく老人や弱卒がいるのみでしょう。速やかに大梁に進み、大梁へと通じる街道を押さえれば、敵は必ずや邯鄲の包囲を解いて自国へと引き返すでしょう。そうすれば、我が軍は邯鄲の包囲を解くことができるばかりか、魏軍を疲弊させることができましょう」
孫臏の策を容れた田忌は全軍を率いて、一路、大梁へと進軍しました。このとき孫臏は、魏軍が必ずや桂陵を通るであろうことを予測。そこで大梁へ行くと見せかけて、桂陵で魏軍を待ち伏せることを進言しました。
一方、この斉軍の動きを聞いた龐涓は、大いに焦ります。このままでは大梁がおとされてしまう。そこで龐涓は邯鄲の囲みを解くや、昼夜兼行で大梁へと引き返したのです。
いざ魏軍が桂陵へと至ったとき、すでに兵士の多くは疲労困憊でした。とそこへ、斉軍が襲い掛かります。すっかり虚をつかれた魏軍はなんの抵抗もできずに、総崩れとなります。龐涓はなんとか戦場から脱することができましたが、その被害は惨憺たるものでした。
こうして桂陵の戦いは、斉軍の大勝利に終わりました。
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