斉への対抗策として5か国連合軍を結成
西方で秦が覇を唱えるなか、東方では斉が着実に地歩を固め、4代宣王の時代には魏を馬陵で撃破。三晋の地を平定しました。
宣王は次なる矛先を、北方の小国・燕へと向けます。
折しも、このとき燕では内紛が勃発していました。燕王をないがしろにして実権を掌握した宰相・子之に、太子・平と将軍・市被が反発して挙兵したのです。内戦は数か月に及び、結果数万人を越える死者を出しました。
前313年、斉はこの機に乗じて出兵。燕王は死に、平は亡命しました。こうして燕は、一旦斉の支配下に置かれることになったのです。
それから2年後の前311年、燕の地に戻った平は旧臣たちに守り立てられ、王として即位しました(昭王)。
斉を深く恨んでいた昭王は、斉への報復を誓います。そこで、壊滅状態にあった燕の立て直しを図るとともに、諸国から有能な人材を募りました。このとき昭王のもとへ馳せ参じたのが、猛将として名の知られていた楽毅でした。
この頃、斉では宣王の跡を継いだ湣王が積極的に軍事遠征を行ない、楚、韓、魏、趙を破って領土を1000里余も拡げるなど、まさに破竹の勢いを見せていました。
そうした状況下、昭王は楽毅に斉を討つ方策を尋ねます。すると楽毅はこう答えました。
「斉は領土が広大で人口も多く、我が国が単独で攻めても倒せるものではないでしょう。しかしどうしても討ちたいとおっしゃるのであれば、趙・楚・魏の諸国と手を結び、攻めるべきです」
そして楽毅は、自ら諸国へ赴き、諸王を説いて回ったのです。他国も斉の軍事拡大路線を驚異に感じていたために、楽毅の誘いに応じました。こうして趙・韓・楚・魏・燕の5か国連合軍が結成され、楽毅が指揮官に就任したのでした。
猛将・楽毅が斉の城をことごとくおとす
前284年、楽毅率いる連合軍は斉領へ向けて進軍を開始。済水の西で斉軍と対峙し、これをあっけなく撃ち破りました。
諸侯の軍はこれに満足し、自国へと引き揚げていきましたが、燕軍を率いた楽毅は進軍の手を緩めず、斉の国都・臨淄を攻略。宝物や祭器などのことごとくを燕へ送り、昭王を大いに喜ばせました。ついに斉への復讐を果たした昭王は喜びのあまり自ら済水のほとりにまで赴くと、そこで兵卒をねぎらい、楽毅を昌国に任命しました。
その後も楽毅は斉への侵攻を続け、5年間で70余の城を落としました。残る城は莒と即墨のみ。楽毅は斉を亡国寸前にまで追い込んだのでした。
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