アメリカの来航に対し、江戸の防衛を固める幕府
時は幕末の嘉永6年(1853)6月、アメリカ使節ペリーが浦賀に来航し、幕府に開国を要求した。これに対し、幕府側は対応に苦慮。12代将軍徳川家慶のもとで老中首座をつとめていた阿部正弘は国書をいったん受け取り、来年に返答をすると言ってひとまずペリーを帰国させた。
近代装備を有するアメリカとの国力の差は歴然としていたが、幕府は来たるべき「その日」に備え、江戸への入口にあたる品川沖に防衛設備の建設に着手する。
こうしてつくられたのが、「御台場」である。
現在は「品川台場」と呼ばれるが、当時はこの場所に地名が存在しなかったことから、「品川御台場」や「内海御台場」など様々な名称で呼ばれていた。
工事は嘉永6年8月末にはじまり、安政元年(1854)12月17日に完成した。もともとは海上に11基、海岸の御殿山下に1基、計12基設置される予定だったが、幕府が財政難にあえいでいたこともあり、実際には海上の第一台場、第二台場、第三台場、第五台場、第六台場、海岸の御殿山下台場(安政4年2月に第四台場と改称)の計6基築造されるにとどまった。
なお、御台場を築造するにあたって使われた大量の土は、現在の御殿山庭園内や高輪、泉岳寺周辺、八ツ山などから運ばれた。また、石垣に使われた石材は伊豆や真鶴半島、三浦半島、木材は八王子鑓水村、下総根戸村から運び込まれている。
総工費は75万両で、すべて幕府の財源によって賄われた。御台場の築造は天下普請ではなく請負制、すなわち民間の業者に工事を委託する形で行なわれたためである。
第一・第二・第三・第六・第八台場は幕府作事方大棟梁・平内大隅廷臣、第四・第五・第七・第九台場は幕府勘定方御用達の樋橋切組方棟梁・岡田次助、第一〇・第一一台場は柴又村年寄・五郎右衛門、細田村名主・与五右衛門が請け負っている。
「御台場」の内部はどうなっていた?
御台場は中央部が窪んだ形状をしており、そこに屯所が設置された。そして屯所の周囲の盛土がなされた部分に大砲が据えられていた。その他には火薬庫や井戸、雪隠などの施設も置かれた。
警備を担当したのは、諸大名である。第一台場は川越藩、第二台場は会津藩、第三台場は忍藩、第五台場は庄内藩、第六台場は松代藩、御殿山下台場は鳥取藩が配された。同様に、品川沖の沿岸部にも各大名に警備箇所が割り当てられた。
だが、結局御台場が機能することはなかった。その後、沿岸部の埋め立て工事によって御台場は海上から姿を消していくが、第三台場と第六台場は国の史跡に指定され、いまにその姿を伝えている。また、靖国神社の遊就館前には、御台場に据えつけられていた青銅製の大砲が展示されている。
もっと江戸の古地図を知りたい人におすすめの書籍一覧
『古地図で辿る歴史と文化 江戸東京名所事典』笠間書院編集部編(笠間書院)
本書は、主に『江戸名所図会』に載る名所・旧跡、寺社のほか、大名屋敷、幕府施設、道・坂・橋、町、著名人の居宅などを、美しさと実用性で江戸時代に好評を博した「尾張屋板江戸切絵図」と「現代地図」を交えて事典形式で解説。
『重ね地図でタイムスリップ 変貌する東京歴史マップ』古泉弘、岡村道雄ほか監修(宝島社)
現代の地図をトレーシングペーパーに載せて過去の地図に重ね、当時の地形からの変化を透かし地図でよりわかりやすく解説。縄文時代、徳川入府以前、徳川時代の江戸、関東大震災後(後藤新平の作った江戸)、昭和30年代以降、大きく変貌する前の東京の地図を掲載。新宿、渋谷、六本木など、重ね地図でその変化がわかる。
『カラー版重ね地図で読み解く大名屋敷の謎』竹内正浩(宝島社新書)
厳選された16のコースで東京の高低差を味わいつつ、楽しみながら歴史に関する知識が身に付く一冊。五街道と大名屋敷の配置には、どのような幕府の深謀遠慮が秘められていたのか?大名屋敷は明治から今日に至るまで、どのように活用されたのか? など多種多様な疑問に答える。高低差を表現した現代の3D地図に、江戸の切絵図を重ねることによって、「江戸」と「いま」の違いも一目瞭然。
『古地図から読み解く 城下町の不思議と謎』山本博文監修(実業之日本社)
古地図と現代の図を「くらべて」分かる、城下町の成り立ちと特徴! 江戸・名古屋・大阪をはじめ、全国の主要な城下町を、古地図をもとに検証。国土地理院の現代の図と定点で比較。