正面通は、五条通と七条通の間を東西に走る通りです。その全長は、西は河原町通から東は大和大路通まで約1.6kmにのぼります。いったいなんの「正面」なのか、気になったことがある方は多いでしょう。そこで今回は、正面通の由来に迫ります。
古地図に記載された「正面」の正体
現在正面通を歩いても、その正体はつかめません。しかし古地図を見ると、正面通の由来が一目瞭然です。
ここで、18世紀に刊行された『京大絵図』を見てみましょう。
『京大絵図』で正面通の東を見ると、そこには方広寺の大仏殿があります。正面通の正面とは、大仏殿に鎮座していた大仏を指し示していたのです。
豊臣秀吉によって方広寺が建立されたのは、天正14年(1586)のことでした。
その後、日本を統一した秀吉は自らの威信を世に知らしめるため、京都に東大寺の大仏よりも巨大な大仏の建立を思い立ちます。
そうして文禄4年(1595)、高さ約49メートル、南北約88メートル、東西約54メートルという巨大な大仏殿と、東大寺の大仏よりも4メートル高い像高約19メートルの大仏が完成したのでした。
その大仏殿の参道として整備されたのが正面通で、通りからは大仏殿から顔をのぞかせる大仏の姿がよく見えたと伝わります。
大仏が見舞われた悲劇
しかし日本一巨大な大仏は、造立の翌年、地震によってもろくも崩壊してしまいます。
秀吉の死後、子の秀頼が大仏の再建に乗り出したものの、慶長7年(1602)には失火により造立途中の大仏が全焼。それでも秀頼はあきらめず、慶長19年(1614)、再び日本一巨大な大仏を完成させました。
元和元年(1615)、豊臣家は大坂の陣で徳川家康によって滅ぼされますが、それでも大仏は壊されることなく、同地で威容を誇りました。
しかし寛文2年(1662)、大仏はまたしても地震によって崩壊。再びつくり直されたが、寛政10年(1798)、今度は落雷によって焼失してしまいます。
天保年間(1830~44年)には大仏殿に大仏がないのはしのびないとして、尾張国の有志らによって高さ2メートルの半身大仏が建立されましたが、それも昭和48年(1973)に焼失してその姿を消しました。
その後は大仏も大仏殿も再建されることなく、現在にいたっています。
こうして正面通の由来となった大仏と大仏殿の姿をいまは見られませんが、方広寺には大坂の陣を引き起こす要因となった「国家安康」と刻まれた梵鐘と、大仏殿に使用されていた礎石が保存されており、かすかによすがを見いだせます。
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