大江戸には飲用水を確保するために上水が引かれていたことはよく知られている話です。一方で江戸の町には下水網も整備されていたことをご存じでしょうか。この記事では、江戸の下水について解説します。
大江戸に整備された下水が果たした役割とは?
飲用のための良質な水を得るべく、江戸には上水が引かれました。上水は石樋や木樋などを通じて市中へと供給され、長屋の住民も上水を使うことができました。
一方で、江戸の町には下水網も整備されていたのをご存じでしょうか。排水処理をしっかりとおこなうことで、江戸の町が浸水することを防いだのです。
江戸時代の下水には、「大下水」と「小下水」の2種類が存在していました。小下水は屋敷地の周囲に張り巡らされたもので、雨水や湧き水がここを通じて流されました。いわゆる「どぶ」のことです。幅は20数センチメートルほどで、木樋でつくられることが多かったようです。
町屋敷にも3尺~1間半(約90センチメートルから約2.7メートル)の庇が設置され、その先から雨水が下水に流されるという仕組みになっていました。
こうして小下水に流された水は、やがて境に設置された大下水に合流する仕組みでした。大下水はいわば下水道の本管で、幅は90センチメートルから1.8メートルほどです。石積みのしっかりしたつくりとなっていました。そして下水は堀や川へ流され、最終的には隅田川を通じて海へ放流されたのです。
下水をきれいに維持していたのは誰?
下水の維持・管理をおこなっていたのは、その下水を利用している町人や武家などでした。彼らは下水組合を組織し、堀や川に土砂やゴミが流れ込まないよう、下水に溜石垣や埃留矢来を設置したり、定期的に浚渫をおこなったりしていたのです。
浚渫を請け負ったのは鳶でした。ちなみに、堀や川の浚渫は芥取りという業者が請け負っていました。
なお、江戸時代のトイレは汲み取り式であり、現代のように排せつ物が下水に流されることはありませんでした。トイレは大用と小用に分かれ、溜まった排せつ物は江戸近郊の農家が肥料用として購入しました。栄養素の高い食事を取っていた大名家、武家、町人の順に買い取り価格が高かったといいます。そのため現代とは異なり、屎尿や油、洗剤などで汚染された水が下水に流されることはなかったのです。
また、米のとぎ汁を拭き掃除や植木の水やりに使うなど、江戸の人々は水を大切に使用したため、下水の水量もそこまで多くなかったのではないかと考えられています。
ただし、下水へのゴミの不法投棄はたびたびあったようです。そこで幕府は下水を清潔に保つため、ゴミ捨てを禁じたり、川岸付近や下水上の小屋や雪隠(トイレ)の設置を禁じたりといった法令を発しています。寛文2年(1662)5月には、下水への死体遺棄を禁ずるお触れも出されているほどです。
なお、上下水道の利用には費用が発生し、町人地の場合は地主が屋敷の間口に応じて、武家地の場合は禄高に応じて負担するしくみでした。しかし長屋の上下水道代は大家が負担したので、長屋の住人は無料で利用できました。
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