宿敵李牧を謀略で殺害した秦
呂不韋の死に伴って親政を始めた政は、いよいよ天下統一への道を歩み出しました。
その最初の標的として選んだのは、当時、もっとも国力が衰えていた韓でした。前231年、韓へ侵攻した秦軍が南陽の地を奪うと、政は内史・謄をそこの仮長官として派遣。そしてその翌年、謄が韓の国都に攻め込み、韓王・安を生け捕りにしました。安は秦に降伏。こうして韓は滅亡したのでした。これによって秦領の一部となった元・韓領には、潁川郡が置かれました。
ここに、秦は中原の半分を手中に収めました。
次なる標的は趙です。しかし趙には、李牧という宿敵がいました。前236年から前232年にかけて秦軍が趙へ侵攻した際、秦軍は李牧相手に大敗を喫していたのです。
そこで政は、まず謀略を用いて李牧の排除をもくろみました。趙の幽繆王の寵臣・郭開に賄賂を贈ると、李牧が謀反を企んでいるとのデマを遷に吹き込ませたのです。信頼していた郭開の言葉を信じた幽繆王は李牧を捕らえるや、殺害しました。
このことが、趙を亡国へと導く要因となりました。秦将・王翦が難なく井陘を突破すると、羌瘣は北上して代を攻略し、楊端和は河内の軍を率いて南から趙の国都・邯鄲へと迫ります。こうして南北から趙領を蹂躙していく秦軍に対して、前228年、幽繆王はあえなく降伏しました。趙の国土は2分され、それぞれ邯鄲郡、鉅鹿郡が置かれ、秦領に組み込まれました。このとき、趙の太子・嘉は代に逃れて代王として自立。燕と同盟を結び、秦に抵抗を続けました。
王翦・王賁父子による快進撃
趙を滅ぼした王翦は、そのまま軍を北へと進め、前226年には燕の国都・薊を制圧します。このとき、燕王・喜は精兵とともに遼東へと逃れました。
前225年、秦は王翦の子・王賁を将として魏への侵攻を開始。王賁は黄河を利用して魏の国都・大梁を水攻めにすると、魏王・假を降伏させ、魏を滅亡へと追い込みました。
前224年、60万の兵を率いた王翦は楚への侵攻を開始。前223年、王翦は蒙武とともに楚の国都・寿春を落として楚王を捕らえ、楚を滅亡させました。
前222年には、王賁が遼東へと進軍。逃れていた燕王・喜を捕虜とし、燕を滅ぼします。さらに王賁は代王嘉を捕らえ、代をも滅ぼしました。
こうしてわずか10年の間に秦は諸国を滅ぼし、残るは斉のみとなりました。このとき、すでに秦は斉の宰相・后勝をはじめ、重臣たちを籠絡していました。そのため王賁が斉の国都・臨淄を取り囲んだとき、斉王・建は戦うことなく秦に降伏しました。建はその後、共の城に監禁され、飢えて死んだと伝わります。
こうして秦は、ついに天下を統一しました。政は自らを「始皇帝」と称し、戸籍制度の設置、文字・貨幣・度量衡の統一など中央集権化のための施策を次々と行ない、その支配体制を磐石なものとしていきました。
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