江戸

日本史

京都古絵図|江戸時代の三条大橋はいまよりもずっと長かった!?

いまも昔も交通の要衝だった三条大橋  京阪三条駅、地下鉄東西線三条京阪駅と繁華街・河原町とを結ぶ三条大橋は、常に多くの人で賑わいを見せる。  この場所に本格的な橋が架けられたのは、天正18年(1590)のこと。豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻め...
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江戸の古地図|「お台場」はアメリカ艦隊の侵攻に備えて築かれた防御施設だった!!

アメリカの来航に対し、江戸の防衛を固める幕府  時は幕末の嘉永6年(1853)6月、アメリカ使節ペリーが浦賀に来航し、幕府に開国を要求した。これに対し、幕府側は対応に苦慮。12代将軍徳川家慶のもとで老中首座をつとめていた阿部正弘は国書をいっ...
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江戸の古地図|かつての日比谷は海の中!埋め立てで誕生した新たな町

埋め立てられた日比谷  慶長8年(1603)、江戸幕府を開いた徳川家康は、その翌年、江戸城の大増築工事に着手した。慶長10年(1605)、江戸城の第一次天下普請が開始される。  このとき、石材や木材などの輸送の荷受場となったのが、日比谷入江...
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江戸の古地図|もともと別の島だった佃島と石川島は江戸時代にひとつの島となった!

佃島と石川島の形成  現在、高層ビルが建ち並ぶ佃島・石川島一帯は江戸時代、隅田川の加工を埋め立てて形成された。  佃島は、徳川家康が江戸に入った際に家康と縁の深かった大坂佃島の漁民が移住したことにはじまる。このとき彼らが漁の安全と大漁を祈願...
日本史

【江戸の風俗】遊廓ってどんな場所?遊ぶためのルールは?江戸幕府公認の遊廓・吉原を早わかり!【庶民の憧れ】

3回通って馴染み客となる  江戸で唯一公認された遊廓・吉原は、江戸に住む男性にとっては憧れの場所だった。  しかし太夫など高級遊女と遊ぶには高額が必要で、また、厳格なルールを守らなければいけなかった。それを知るのに役立ったのが『吉原細見』と...
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江戸の古地図|紀尾井坂・仙台坂・南部坂……江戸っ子はなぜ坂に名前をつけたのか

東京に坂が多いのはなぜ?  台地と低地上に形成された東京には、とにかく坂が多い。千代田区の九段坂や渋谷区の道玄坂など、名前のついた坂はじつに700以上もあるといわれる。  これらの坂のほとんどは、江戸時代以降に形成されたものだ。  徳川家康...
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【江戸のなぞなぞ①】江戸時代の地名クイズで遊ぶ

これは、江戸時代に制作された『無筆名所案内図』である。地名や人名、ものの名前を音が共通する絵に置き換え、それがいったい何を示すのかを当てる江戸時代のなぞなぞだ。一般に「判じ絵」と呼ばれる。  タイトルにつけられた「無筆」は「読み書きのできな...
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江戸時代の牢屋敷はいったいどんな場所?語り継がれる美談とは?

人々から恐れられた土地  東京メトロ日比谷線・小伝馬町駅から北へ2分ほど歩くと、十(じっ)思(し)公園へと至る。園内に保存されている時の鐘は、江戸時代、石(こく)町(ちょう)に置かれていたものである。高さは約1.7メートル、口径は約93セン...
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京都古地図|幕末の古地図に「菊の紋」が描かれている理由

時代によって異なる禁裏の描き方  明治2年(1869)に東京奠都がなされるまで、京都御所は天皇の御在所であり、この場所で数々の儀式が執り行なわれてきた。古地図上では「禁裏きんり」と記される。みだりに内裏内へ入ることを禁じていたことから、そう...