いまに残る江戸城天守台
東京都心の中心に、天皇の御所・皇居はある。かつての江戸城西の丸があった場所に建てられたものだ。
江戸城は、長禄元年(1457)、太田道灌が江戸湾に面した台地に築いた平山城に端を発する。
その後、慶長8年(1603)に江戸幕府を開いた徳川家康の時代から江戸城の増築工事がなされ、3代将軍家光の時代の寛永13年(1636)に完成を見た。
こうして築かれた江戸城は、じつに巨大なものだった。将軍の住まいと政庁を兼ねる本丸御殿、前将軍や将軍の世継ぎが住まう西の丸、さらに本丸の東には二の丸、三の丸が広がっていた。
なお、3代家光の時代までは天守が堂々たる威容でそびえていたが、明暦の大火で焼失してしまう。4代家綱はすぐさま本丸の再建工事に着手。加賀藩主・前田綱紀に命じて天守台を再建させ、続いて天守の復興にも乗り出したが、叔父で補佐役の保科正之が「泰平の世にあって、莫大な費用をかけてまで天守を再建する必要はない」と主張したため、天守の再建を中止し、城下の復旧を優先した。
その後、6代家宣の時代に天守の再建話が持ち上がったものの、家宣の急死によって中断。8代吉宗の時代には本丸南端の富士見櫓が天守代用とされ、以降、天守が再建されることはなかった。
なぜ西の丸が皇居に?
明治時代になると、江戸城は明治天皇の宮城となる。しかし皇居として利用されたのは、本丸ではなく西の丸だった。
じつはこのとき、すでに本丸は存在していなかった。文久3年(1863)に焼失して以降、再建されなかったためだ。現在の天守台の東面に見える焼け焦げた跡はこのときの火災によるものである。
当時の将軍は、仮御殿として建築された西の丸を住まいとしていた。つまり幕末、幕府から新政府に引き渡された建物は、江戸城といっても西の丸のことだったのである。
西の丸皇居は明治6年(1873)に焼失したが、すぐに同地で再建がなされた。こうして明治21年(1888)、二重橋を正門とする明治新宮殿が完成した。
以降、大正天皇、昭和天皇の住まい、国家的儀式、政務の場として利用されたが、昭和20年(1945)の空襲によって焼失。これによって天皇・皇后両陛下は吹上御苑内の御文庫内での生活を余儀なくされたが、昭和36年(1961)、吹上御苑に新御所が建築され(吹上御所)、不便は解消された。そして昭和43年(1968)、公的の場としての現在の宮殿が再建され、もともと一体であった皇居は「御所」と「宮殿」に分かれることになったのであった。
建物は近代建築へと変貌を遂げたが、城の構造は変わらずに往時の姿を留めている。たとえば一般公開されている皇居東御苑(本丸・二の丸跡)の3か所ある入口のうち、大手門や平河門(平川門)の位置は当時と変わらない。
現代と江戸時代の2つの地図を見比べながら、本丸跡や天守閣の台座など、かつての江戸城の名残をじっくりと散策するのも一興である。
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