高瀬川の舟運に商機を見出した角倉了以
京都市街地を流れる高瀬川は、慶長18年(1613)に掘削された全長10キロメートル、水深30センチメートルほどの人工河川です。
二条大橋付近で鴨川の水を引き入れ、鴨川と並行するように南流し、南区東九条辺りで鴨川と一度合流。鴨川の東岸から東高瀬川と名を変えて分流し、伏見市街地西部を経て宇治川へと流れ込みます。
高瀬舟と呼ばれる底の浅い箱型の舟が川を上り下りしていたことから、高瀬川と呼ばれるようになりました。
高瀬川を開削したのは、江戸時代の豪商・角倉了以・素庵父子。『新板平安城東西南北町并洛外之図』(1658年刊)によると、当時は四条から五条の間にかけて鴨川と合流していました。しかしその後河川の整備が行なわれるなかで、鴨川と分離して独立しました。
それでは、なぜ鴨川と並行する形で高瀬川が掘削されたのでしょうか。
その理由は、鴨川の水量が不安定であり、水運として用いることができなかったためです。
舟運から陸運へ
当時、京都市中には港がありませんでした。大坂方面から舟で運ばれてくる物資は、一度淀や伏見、鳥羽といった京都近郊の港で荷揚げされ、そこから陸路で市中へと運んでいたのです。
この様子を見た了以は、次のように考えました。もし京都市中まで舟で直接荷を運ぶことができるようになれば、多くの商人が利用するはず。彼らから舟賃を徴収すれば、莫大な利益が上がるにちがいない、と。
そして用地を自費で買い上げるとともに、水路の開削に着手。高瀬川を切り拓いたのでした。
高瀬川の運行を許されたのは、総数で159艘。1艘1回の利用につき、舟賃2貫500文を徴収しました。
舟賃のうち、幕府に納められたのは1貫。舟の加工代として250が使われ、残りの1貫250文が角倉家の収入となりました。
こうして高瀬川が拓かれると、舟運を通じて京都市中に大量の物資が流れ込みました。最盛期には、輸送の拠点となる舟入が二条~四条間に9つ設置されたといいます。
これにより馬借・車借と呼ばれた陸運業者らは大打撃を受けました。ですが一方で、米や薪といった生活物資の価格が下落したため、京の人々は大いに喜んだと伝わります。
明治10年(1877)、七条~大阪間を鉄道が走るようになると、高瀬川の舟運は徐々に利用されなくなっていきます。そして大正9年(1920)6月、約300年続いた高瀬川の舟運はその歴史に終わりを告げたのでした。
水運としては利用されなくなった高瀬川ですが、いまでは人々の憩いの場としてすっかり定着されています。当時の高瀬舟も復元されていますので、お散歩ついでにぜひ見学されてはいかがでしょうか。
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