【早わかり戦国時代】戦国武将必須の教養!茶の湯を家中統制の道具として利用した織田信長

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戦国時代
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茶の湯は戦国武将必須の教養だった

 日本における茶の湯の歴史は、平安時代末期、臨済宗の僧・栄西が宋から喫茶法を持ち帰ったことにはじまるという。ただしこの頃の茶は飲み物としてというよりも、「薬」として用いられていたようである。

 その後、室町時代の15世紀後半に村田珠光が侘茶を興し、茶を楽しむ風習が生まれると、戦国時代には武将たちの間にも浸透した。茶の湯には精神の安定をもたらす効果があったほか、少人数しか入れない茶室は政治交渉を行なう場としても好都合だったためである。

 たとえば豊臣秀吉が千利休につくらせたと伝わる待庵(国宝)は、わずか2畳の和室で、次間1畳と勝手の間1畳で構成された。にじり口と呼ばれる入口は高さ78.5センチメートル、幅71.8センチメートル。刀を腰から外さないと入れないつくりとなっていたため、お互いに腹を割った話し合いがなされたことが想像できる。

 いつしか茶の湯は武将に欠かせない教養であると見なされるようになり、茶の湯のたしなみがない者は不作法者と扱われるようになった。

茶の湯を政治利用した信長

 織田信長は、この茶の湯を家中統制の道具として利用した。戦功を挙げた武将に収集した名物茶道具を下賜し、その茶道具を用いた茶会の開催を許可したのである。これを「茶の湯政道」という。

 信長政権下においては、信長の許可なくして茶会を催すことはできなかったため、茶道具を下賜されることは家臣にとって大変名誉なことであった。そのため諸将は手柄を立てるべく、戦場で目覚ましい働きをなしたのである。

 そのなかでも、とくに知られるのは滝川一益のエピソードであろう。

 武田氏の滅亡に一役買った一益は戦後、信長から恩賞を与えられることになった。このとき、一益は名物・珠光小茄子の茶入れを所望したが、その願いはかなわず、代わりに武田氏の遺領であった上野一国と信濃二郡を与えられるとともに、関東管領に任じられた。

 しかし一益にはこれが不服であったようで、「小茄子を拝領しようと思っていたが、上野のような遠国に置かれてしまい、茶の湯の冥加ももはや尽き果てた」(「三国市太郎五郎宛書状」)と嘆いている。

 領土よりも名物茶道具に重きを置いていたことがよくわかる逸話である。

 豊臣秀吉もまた、信長同様、茶の湯の効能をうまく利用した武将である。

 たとえば大坂城に「黄金の茶室」をつくり、自身の権勢を世に知らしめている。また、京の北野神社(北野天満宮)で800の茶席が設けられるという大規模な茶会を開き、その威勢は庶民にまで広くとどろくところとなった。なお、この大茶会が野点のはじまりといわれている。

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