江戸古地図|江戸の町の範囲は現在の東京のどこからどこまでだった?
【早わかり戦国時代】戦国武将必須の教養!茶の湯を家中統制の道具として利用した織田信長
茶の湯は戦国武将必須の教養だった 日本における茶の湯の歴史は、平安時代末期、臨済宗の僧・栄西が宋から喫茶法を持ち帰ったことにはじまるという。ただしこの頃の茶は飲み物としてというよりも、「薬」として用いられていたようである。 その後、室町...
江戸の古地図|紀尾井坂・仙台坂・南部坂……江戸っ子はなぜ坂に名前をつけたのか
東京に坂が多いのはなぜ? 台地と低地上に形成された東京には、とにかく坂が多い。千代田区の九段坂や渋谷区の道玄坂など、名前のついた坂はじつに700以上もあるといわれる。 これらの坂のほとんどは、江戸時代以降に形成されたものだ。 徳川家康...
【早わかり戦国時代】織田信長の威光を世に知らしめた「京都御馬揃」とは?
20万人以上が詰めかけた一大イベント 天正8年(1580)閏3月、石山本願寺の顕如けんにょは朝廷の斡旋を受け、同所を織田信長へ明け渡すことを決した。ここに、元亀元年(1570)9月以来続いていた石山合戦の幕が閉じる。 一方この頃、明智光...
【江戸のなぞなぞ①】江戸時代の地名クイズで遊ぶ
これは、江戸時代に制作された『無筆名所案内図』である。地名や人名、ものの名前を音が共通する絵に置き換え、それがいったい何を示すのかを当てる江戸時代のなぞなぞだ。一般に「判じ絵」と呼ばれる。 タイトルにつけられた「無筆」は「読み書きのできな...
京都古地図|船岡山は京都の町の基準点だった!?
清少納言も褒め称えた景勝地 京都市の北部に、標高約112メートルの船岡山(ふなおかやま)はそびえる。その威容がまるで船のようであることから、または船を伏せた形に似ていることから、その名がついたといわれる。 現在、山頂は公園として整備され...
【早わかり戦国時代】弱体化していた室町幕府が崩壊しなかったのはどうして?
将軍の座を巡る争い勃発 室町幕府の歴史は建武3年(延元元・1336)にはじまり、3代将軍・足利(あしかが)義(よし)満(みつ)の時代に全盛を迎える。だが、その権力基盤はきわめて脆弱であり、将軍の座を巡ってたびたび反乱が起こっている。 6...
【早わかり忠臣蔵】赤穂浪士はどんな「辞世の句」を遺した?
討ち入り後の赤穂浪士 元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は吉良邸へ討ち入って主君の仇・吉良上野介義央の首級を挙げ、見事本懐を遂げた。 その後、幕府は彼らの行動を「主人の仇討ち」とは認めず、「徒党」であると判断。公儀を恐れない行...
江戸の古地図|本丸御殿ではなく、西の丸御殿が「皇居」となったワケ
いまに残る江戸城天守台 東京都心の中心に、天皇の御所・皇居はある。かつての江戸城西の丸があった場所に建てられたものだ。 江戸城は、長禄元年(1457)、太(おお)田(た)道(どう)灌(かん)が江戸湾に面した台地に築いた平山城に端を発する...
【早わかり忠臣蔵】赤穂浪士討ち入りのルートを歩く
吉良、討ち取ったり 時は元禄15年(1702)12月14日深夜、元赤穂あこう藩の浪士たちは主君・浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのりの仇である高家こうけ・吉良上野介義央きらこうづけのすけよしなかの屋敷に討ち入り、見事討ち取った。世に知...