「大江戸八百八町」という言葉を聞いたことがある方は多いでしょう。しかしじつは江戸の町の数はそれ以上に存在していました。この記事では、どこからどこまでが江戸の範囲だったのかを古地図を用いて解説します。
役所によって江戸の町の範囲は異なっていた
明暦の大火後、江戸の市街地の規模は拡大の一途をたどり、寛文2年(1662)には町奉行管轄の町数が674となりました。正徳3年(1713)には933にまで増加。さらに延享年間(1744~48年)には寺社奉行管轄の門前町が町奉行の支配下となったこともあり、江戸の総町数は1678を数えるまでになりました。しばしば「大江戸八百八町」といわれますが、実際はその倍以上の町が存在していたのです。
それでは、いったい江戸とはどこからどこまでを指すのでしょうか。じつは、当時の江戸の範囲は曖昧でした。
たとえば「江戸払」が科せられた罪人に立ち入りが禁じられた地域は、北は板橋宿・千住宿、東は本所・深川、西は四谷大木戸、南は品川宿であったことから、それらよりも内側が江戸ということになります。
なお、板橋宿、千住宿、品川宿は宿場町であったことから、町奉行ではなく代官支配下にありました。
一方で、寛政3年(1791)、江戸城から4里(約16キロメートル)四方が「御府内」とされ、幕臣がそこから外のエリアへ行くには届け出が必要とされました。
また、寺社奉行が勧化(寺社の建立や修復などの寄付を募ること)を認めた江戸の範囲は、北は千住宿・尾久村・滝野川村・板橋宿、東は砂村・亀戸村・木下川・須田村、西は代々木村・角筈村・戸塚村・上落合村、南は上大崎村・南品川宿限りとされました。
このように、役人の管轄によって江戸の範囲はバラバラであり、行政上の支障をきたしていたのです。
江戸朱引内図によって定められた江戸の範囲
そうした状況下の文政元年(1818)8月、目付が伺を提出し、それに基づいて評定所が協議をおこないました。その結果、老中・阿部正精は幕府の公式見解として江戸の行政範囲を確定しました。絵図に朱線を引き、北は荒川、石神井川(板橋宿、滝野川、尾久周辺)、東は中川(亀戸、平井周辺)、西は神田上水(代々木、角筈、長崎周辺)、南は目黒川(品川宿周辺)までを御府内と定めたのです。朱線で引かれたことから、「朱引内」とも呼ばれます。
現在の地図でいうと、ほぼJR山手線の内側に江東区と墨田区の一部などを加えた地域が該当します。
また、朱引の内側には墨線が引かれ、町奉行所の管轄範囲も定められました。北は橋場町、箕輪村、駒込村、染井村、東は永代新田、猿江村、小梅村、西は中渋谷村、千駄ヶ谷村、南は下高輪町、下目黒村、中目黒村です。
文政元年(1818)頃に制作された『旧江戸朱引内図』を見ると、町奉行所の管轄範囲を超えるまでに江戸という都市が拡大していた様子がうかがえます。
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