日本全国に鎮座する天神社・天満宮では、ウシを天神の使いとして崇めています。境内にウシの像を見ることができるのはそのためです。
それでは、この天神というのはいったい誰のことなのでしょうか。また、天神はいったいいつから信仰されるようになったのでしょうか。
天神の誕生
天神といえば、学問の神としておなじみですね。この天神とは、平安時代初期の学者で政治家の菅原道真のことをいいます。
道真は幼少の頃から学問に優れ、時の宇多天皇の篤い信任を得て右大臣の地位にまで登り詰めた人物です。しかし政敵によって無実の罪に陥れられて大宰府へ流され、同地で失意のまま亡くなりました。
その後、都では皇族や貴族が次々と急死したり、清涼殿(天皇の日常の居所)に雷が落ちたりするなどの不穏な出来事が頻発しました。
当時は、非業の死を遂げた人の霊が祟りをもたらすと信じられていました。これを「御霊信仰」といいます。そうしたことから、人々はこの事件を道真の祟りであると信じ、恐れました。そして人々に災いをもたらす火雷天神信仰と結びつき、道真を天神として畏怖する信仰が生まれたのです。
天暦元年(947)に道真を祭神とする北野天満宮(京都)が創建されると、祟る神を鎮めるとともに、祈雨・避雷・五穀豊穣の神として庶民からの信仰を集めるようになりました。
畏怖の対象から学問の神へ
当初は怨霊による祟りからはじまった天神信仰でしたが、鎌倉時代になると、生前の道真の学識や人格が崇拝されるようになり、天神の霊験やご利益を世に伝える天神縁起がつくられるようになりました。
さらに室町時代になると、道真は和歌や詩歌の神として崇拝されるようになります。また、禅宗で天神が重んじられたことから、京都五山(南禅寺・建仁寺・東福寺・建長寺・円覚寺)の僧の間で道真が中国へ渡ったという渡唐天神の伝承が成立。天神が唐衣をまとった姿で描かれるようになりました。
現在のように学問の神として信仰されるようになるのは、江戸時代に入ってからのことです。とくに庶民の教育機関であった寺子屋では道真の神像や神号を掲げるなどして崇拝されました。こうして現在も、天神は学業成就の神として受験生の信仰を集めているわけです。
菅原道真の生涯
西暦 | 事項 |
845年 | 京都で生まれる。菅原氏は代々名だたる学者を輩出した家柄だった。幼少の頃から文才に優れていた |
877年 | 式部少輔に任ぜられる。あわせて家職である文章博士を兼任。 |
886年 | 讃岐守に任ぜられ、讃岐国へ下向。890年に帰京。 |
891年 | 当時の宇多天皇の信任を受け、蔵人頭に就任。 |
897年 | 3女・寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とする。権大納言に就任。 |
899年 | 右大臣に就任。 |
901年 | 左大臣・藤原時平のざん言により、大宰府へ左遷される。 |
903年 | 配所に閉じこもる失意の日々を送った末に没する。 |
923年 | 醍醐天皇の皇太子・保明親王が21歳で亡くなる。道真の祟りとして恐れられる。 |
930年 | 宮中の清涼殿に雷が落ち、大納言をはじめ数人の貴族が亡くなる。道真の祟りとして恐れられる。 |
947年 | 神託がくだり、道真の霊を鎮めるために北野天満宮を建立。 |
日本のしきたり・年中行事をもっと知りたい方におすすめの書籍
『有職故実から学ぶ 年中行事百科』八條忠基(淡交社)
日本の生活文化を語る上で欠かせない「年中行事」。しかし現在定着している行事のほとんどは、実は江戸~明治時代以降に普及した形式です。では近世以前、年中行事の原形となった行事はどのようなものだったのでしょうか。有職故実研究家による説明と豊富な文献・図版資料、そして老舗料亭「西陣 魚新」による雅やかな有職料理などで、総数130以上の行事や通過儀礼を紹介する充実の事典です。
『こよみを使って年中行事を楽しむ本2023』神宮館編集部・編(神宮館)
「こよみ」をもっと身近に親しんでいただきたいと思い、もともと「こよみ」に載っており、古くから日本人が大切にしてきた年中行事や日本の伝統文化の解説を分かりやすくイラスト付きで掲載しました。更に、運勢欄も見やすくなり、毎日の月齢や「こよみ」の活用方法なども載っています。
『季節を愉しむ366日』三浦康子・監修(朝日新聞出版)
景色、天気、寒暖、色、食、衣服……豊かな一年を日々切り取った一冊。ページをめくるたびに、イラストや写真、文学作品とともに日本の風情に浸れます。日常で取り入れられるレシピやミニ知識も収録。