江戸には処刑場が2つ設置された
江戸時代、罪を犯した人々は犯罪の内容によって刑罰が科されました。
たとえば寛保2年(1742)に作成された『公事方御定書』によると、正刑には死刑・遠島・追放・敲・押込・呵責の6種類があったといいます。そのほか、引回晒首、闕所、晒などの付加刑が科されることもありました。
死刑は言わずもがなですね。遠島は島流しの刑、追放は江戸から追い出されること、敲は裸の状態でうつ伏せにさせられてムチで叩かれること、押込は自宅謹慎のこと、呵責は「コラっ!」と怒られることです。
このうち、死刑以上の刑を執行する刑場は、江戸に2か所設置されました。千住の小塚原刑場と品川の鈴ヶ森刑場です。慶安4年(1651)に設置されました。
もともとは浅草と芝に置かれていましたが、江戸の発展に伴って市街地から遠ざけられ、小塚原刑場は奥州・日光道中沿いに、鈴ヶ森刑場は東海道沿いに設置されました。どちらの形場で死刑が執行されるかは出身地で決まったといい、東国出身者はおもに小塚原刑場へ、西国出身者はおもに鈴ヶ森刑場へと送られました。
『改正新刻今戸箕輪浅草絵図』(一八四九~六二年刊)上、「仕置場」と書かれている場所が小塚原刑場です。間口は60間(約108メートル)、奥行きは30間(約54メートル)ありました。
一方の鈴ヶ森刑場の間口は40間(約74メートル)、奥行きは9間(約16メートル)でした。
いずれも刑場も、江戸の東西の入り口にあたる場所に設置されています。幕府はいったいなぜ、街道沿いにわざわざこのような残酷な刑場を設置したのでしょうか。
刑場が街道沿いに置かれた理由
じつは当時、刑場には「庶民への見せしめ」という役割が期待されていました。
2つの刑場では、獄門以上の刑が執行されました。ほぼ毎日死刑が執行され、その数は年間で1000以上に及んだといいます。獄門は死刑の付加刑のことで、やはり刑場に罪人の首が晒されました。
また、刑木に縛り付けられた状態で槍でつかれて処刑される「磔」、刑木に縛り付けられた状態で火あぶりにして処刑される「火罪」も、この場所で執行されました。
江戸を出入りする者は、否応なく刑場のそばを通らなくてはなりません。このように残酷な光景をひと目に晒すことで、幕府は犯罪を未然に防ごうとしたのです。悪いことをすれば、こうなるのだという見せしめです。
ただし、当時は怖いもの見たさに刑場を訪れる庶民も多かったと伝わります。一種の見世物のような役割も果たしていたのですね。
その後、2つの刑場は明治時代に廃止されました。鈴ヶ森刑場の廃止は明治3年(1870)、小塚原刑場の廃止は明治12年(1879)のことです。
現在、小塚原刑場の跡地には延命寺が建ち、境内には寛保元年(1741)に建立された首切り地蔵がかつての歴史をいまに伝えています。
一方、鈴ヶ森刑場跡には石碑が残るのみであり、のどかな光景からはかつての残酷な刑罰の実情をうかがうことはできません。
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