京都古地図|京都にはなぜ「東本願寺」と「西本願寺」がある?その理由
江戸
祇園の花見小路通は江戸時代にはなかった?|京都歴史散歩
祇園といえば、古都・京都の風情を象徴する町のひとつに挙げられます。 祇園の茶屋に遊女を置くことが許可されたのは、寛政3年(1791)のことでした。 ただし、寛延元年(1748)8月に大坂竹本座で初演がおこなわれた『仮名手本忠臣蔵』の7段目に...
寺町通に寺院を集めた秀吉の目的は?繁華街となった理由は?|京都歴史散歩
京都の南北の通りのひとつである寺町通は、通り沿いに多くの寺院が建ち並ぶことからつけられました。 北は鞍馬口通の浄善寺から南は五条通の宗仙寺まで、およそ5キロメートルの通り沿いには、じつに100余りの寺院が存在します。 寺町通の歴史は、平安京...
祇園祭|山鉾巡行のルートが江戸時代といまとで異なっている理由
祇園祭の山鉾巡行のルートが江戸時代といまとで異なっていることをご存じでしょうか。この記事では、山鉾巡行のルートが変更された理由について解説します。
ビルに刺さった錦天満宮の鳥居はいつからこうなっている?江戸時代と現代を比較!
京の台所・錦市場の近くに鎮座する錦天満宮といえば、鳥居がビルの壁で突き刺さっていることで知られますが、いったいいつからそのようになっているのでしょうか。この記事では、錦天満宮の鳥居の謎に迫ります。
江戸古地図|飯盛女目当てに宿場町を訪れる江戸っ子、事実上の遊郭だった江戸四宿
五街道に設置された宿駅のうち、品川宿・板橋宿・内藤新宿・千住宿は江戸四宿と呼ばれました。江戸四宿には江戸っ子らも足しげく通ったといいますが、はたしてその目的はどこにあったのでしょうか。この記事では、江戸っ子が宿場町に通った理由について解説し...
江戸古地図|江戸の町の範囲は現在の東京のどこからどこまでだった?
「大江戸八百八町」という言葉を聞いたことがある方は多いでしょう。しかしじつは江戸の町の数はそれ以上に存在していました。この記事では、どこからどこまでが江戸の範囲だったのかを古地図を用いて解説します。 役所によって江戸の町の範囲は異なっていた...
江戸古地図|明暦の大火を機に拡大した江戸の町
明暦3年(1657)正月18日から20日にかけて江戸の町を襲った「明暦の大火」により、江戸の町のじつに6割以上が焼失しました。この記事では、明暦の大火を境として江戸の町がどう変わったのかを古地図を通じて読み解きます。 江戸の町を拡大させるき...
江戸古地図|江戸の町には上水に加えて下水も整備されていた!
大江戸には飲用水を確保するために上水が引かれていたことはよく知られている話です。一方で江戸の町には下水網も整備されていたことをご存じでしょうか。この記事では、江戸の下水について解説します。 大江戸に整備された下水が果たした役割とは? 南小田...
江戸古地図|江戸時代に同心が住んでいた八丁堀の由来は?なぜ掘られた?
現在、オフィス街が形成されている八丁堀エリアには、江戸時代、与力や同心といった幕府に役人が暮らしていました。この記事では、なぜ八丁堀という地名が誕生したのか、八丁堀が掘られたのはどうしてなのかについて解説します。 八丁堀の由来は堀の長さにち...