将軍の座を巡る争い勃発
室町幕府の歴史は建武3年(延元元・1336)にはじまり、3代将軍・足利義満の時代に全盛を迎える。だが、その権力基盤はきわめて脆弱であり、将軍の座を巡ってたびたび反乱が起こっている。
6代将軍・義教の時代には鎌倉公方・足利持氏による乱(永享の乱)が起き、さらには義教が播磨守護・赤松満祐に暗殺されるという事件も発生した(嘉吉の乱)。
応仁元年(1467)には8代将軍・義政の後継を巡る争いが一因となって応仁・文明の乱が勃発。明応2年(1493)には10代将軍・義材が管領・細川政元に将軍職を追われ(明応の政変)、13代将軍・義輝も三好三人衆や松永久秀によって自害へと追い込まれている。
将軍を頂点とした序列
しかしそれでも幕府そのものは瓦解せず、織田信長が15代将軍・足利義昭を追放する天正元年(1573)まで存続した。
それもひとえに、当時は将軍を頂点として定められていた儀礼的な権威があったためである。
室町時代、大名や武家には身分の序列がつけられ、それに応じた細かいしきたりや慣例が定められた。殿中における席次や将軍に謁見する際の立ち居振る舞い、宴会の料理の献立や手紙の文句にいたるまで、あらゆる物事において序列や格式が重んじられたのである。
将軍の許可を得ずして塗りの輿に乗ったり、馬の鞍に毛氈の鞍覆をかけたり、行列の先頭に白傘(笠)袋を立てたりすることも許されてはいなかった。
織田信長が天下に名を轟かせる契機となった桶狭間の戦いの際、駿河の今川義元は輿に乗って出陣したことで知られる。当時輿に乗ることができたのは将軍職かそれに準ずる高位の者に限られていたため、自身の権威を信長に見せつけようとしたといわれる。
また、しばしば大名は将軍の名前の一字を拝領(偏諱)することで、将軍家との結びつきを強くしようとした。たとえば甲斐の武田晴信(信玄)、奥州の伊達晴宗、越後の長尾晴景などは12代将軍・義晴から、越後の上杉景虎(謙信)も13代将軍・義輝から偏諱を受けている。
戦国時代は下克上の時代であったが、それでも大名らは幕府の権威の名のもとに領国を支配していったのである。
なお、当時の人々は武家政権のことを「幕府」とは呼んでいなかった。たとえば室町時代、朝廷は足利政権を「武家」と呼び、守護などは「室町殿」「公方」などと呼んでいた。
幕府という言葉が使われるようになったのは江戸時代末期のこと。あくまでも朝廷から任命された将軍の政府に過ぎないという批判的な言葉として用いられたのが初めである。
しかし現代、歴史を学ぶうえで鎌倉から江戸と続く武家政権を統一的に捉える必要性から、これらの武家政権を便宜的に「幕府」と呼んでいるに過ぎないことには注意が必要である。