秦国内で反乱が頻発する
函谷関において、「外」における最大の脅威を退けた秦でしたが、今度は国内において乱が頻発します。その端緒となったのが、前239年に勃発した成蟜の乱でした。
成蟜は秦王・政の弟にあたり、長安君に封ぜられていました。同年、政の命を受けた成蟜は軍を率いて趙軍を撃ち破るも、そのまま屯留の地に駐まり謀反を起こします。しかし政はこれに冷静に対処。軍を屯留に派遣すると、成蟜を討ち取り、謀反を平定しました。このとき、成蟜に与した屯留の民はみな、西方の甘粛の地へ強制的に移住させられたといいます。
こうして乱は平定され、秦に安息のときが訪れましたが、再び国内で反乱が勃発。首謀者は宦官・嫪毐でしたが、その陰で手を引いていたのは相国として実権を握っていた呂不韋でした。
政の母・趙太后は、もともと呂不韋の愛人でした。荘襄王の死後、その性欲を抑えきれなくなった趙太后は、隙を見つけては呂不韋を呼び寄せ、密通を重ねる日々を送ります。
そのような日々が続くなかで、さすがの呂不韋も事が発覚し、自分に災禍が及ぶことを恐れるようになりました。そこで白羽の矢を立てたのが、巨根の持ち主として知られていた嫪毐という男でした。
呂不韋は嫪毐を宦官に仕立て上げて後宮の趙太后のもとへ送り込みます。すると太后はたちまち彼の巨根の虜となり、嫪毐を寵愛するようになりました。
こうして太后の愛人となった嫪毐は、急速に権勢を強めていきました。長信侯に封ぜられて山陽の地を与えられ、また河西の太原郡を封地として授けられたほか、王朝における諸事のことごとくを嫪毐が決裁するまでになったのです。そして気がつけば、嫪毐1000余人の舎人、数千人の下僕を擁するまでになりました。
また、嫪毐と太后の間には、ひそかにふたりの子どもが生まれていました。嫪毐はやがてこれらの子に王位を継がせ、自分が国の政事を思いのままに行なうという大それた野望を抱くようにもなりました。
嫪毐の乱、勃発
前238年、ついに嫪毐が行動に出ます。政が加冠の儀(成人即位の儀式)を行なうために側近だけを連れて旧都・雍に赴いた隙をつき、クーデターを起こしたのです。
しかし事前に政のもとに密告した者があり、計画は筒抜けでした。そのため政は宰相・昌平君と昌文君に命じて軍を率いさせ、これを鎮圧させました。そして捕らえた嫪毐とその一族の者を皆殺しにしたのでした。
ところが、事件はこれだけでは終わりませんでした。あろうことか、呂不韋がこの計画に連座していたことが発覚したのです。
政は呂不韋にも死を命じようとしましたが、先王から秦に仕えた呂不韋の功績が大きなものであったため、罷免するとともに河南の地への流罪を命じるにとどめました。
しかし、相も変わらず呂不韋のもとを訪れる賓客があとを断たなかったため、再び反乱が起こることを恐れた政は、呂不韋に蜀への移住を命じます。やがて自分が政によって殺害されるであろうことを悟った呂不韋は、配流前に自害を遂げました。
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